シネマトグラフ

濱口竜介『偶然と想像』における想像の位置 / なぜブレッソンか

濱口竜介監督による2021年作『偶然と想像』における想像の置かれている位置を、この映画が "言葉によるセックス" についての映画であるという点から考える。そして、それを元になぜこの監督がロベール・ブレッソンの方法を用いているのかについて考える。

ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』非人間的な手作業と抵抗

ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっ…

ロベール・ブレッソン『湖のランスロ』近代社会の二重の破滅

ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。

ロベール・ブレッソン『やさしい女』閉じ込められていく過程

ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。

ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』鳥としての少女

ロベール・ブレッソン監督による1967年作『少女ムシェット』について。冒頭の鳥と同様に、ムシェットは地べたでの生活をしており、どこに行っても罠がある。その中で、物理的にも雨に打たれて泥まみれになるのが描写されていく。母親の死と強姦によって周囲…

ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』無力な存在

ロベール・ブレッソン監督による1966年作『バルタザールどこへ行く』について。幸せそうな家庭があり、ほとんど結ばれてるような幼馴染がいて、大切に飼われているロバがいるという理想的な状況がある。しかし、その幼馴染は結ばれず、家庭は破産し農具が近…

ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』象徴させない演出

ロベール・ブレッソン監督による1962年作『ジャンヌ・ダルク裁判 』について。カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』が権力差や体制の暴力性、内的な葛藤など、裁判に関わる要素の象徴的な演出に溢れていたのに対して、この映画は主軸の3人、…