フランス映画
オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1983年作『エウスカディ、1982年夏(Euzkadi été 1982)』について。 冒頭、バスク地方の言語がヨーロッパ最古の言語であること、住む人々が言語、伝統を維持し続けていることが語られる。前半はモノ…
オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1996年作『群盗、第七章(Brigands, chapitre VII)』について。 主人公は誰を生きているか 中世、ソ連占領下、内戦下の現代という3つの時代のジョージアにおいて群盗である人々を描いた映画。同じ役…
ジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)による1961年作『殺人者にスポットライト(Pleins Feux sur l'Assassin)』について。 死期を迎えた古城に孤独に暮らす伯爵は、オルゴール付きの人形と共に鏡の裏に隠された部屋に入って死ぬ。鏡の裏の部屋の存在は…
サッシャ・ギトリ(Sacha Guitry)による1951年作『毒薬/我慢ならない女(La Poison)』について。 スタッフロールの代わりにサッシャ・ギトリが全員の名前を呼びながら俳優やスタッフに感謝してる映像が冒頭に差し込まれており、それによってこれが作られ…
ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1949年作『白い足(Pattes blanches)』について。 ブレッソンのキャリア初期と同じ時期にカール・TH・ドライヤーやこの監督の後期の映画があるということにすごく納得感がある。冒頭の空に左下にさがるように広…
ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1938年作『不思議なヴィクトル氏(L'étrange Monsieur Victor)』について。 ヴィクトルがコメディアンととして登場するが、画面は何かぼやけて閉塞感に満ちている。そこに、殺人のニュースと明らかに異様な雰囲…
ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1941年作『曳き船(REMORQUES)』について。 幸福に満ちた船員の結婚式を映すカメラは、ぐるぐると忙しなく回るように移動し続ける。カットも不安定に切り替わり続ける。カメラの移動はなぜか上下に弧を描くよう…
アンドレ・テシネ(André Téchiné)による2007年作『証人たち(The Witnesses)』について。即興的に撮られたような映像とは対照的に、物語構造や人物設定は非常に構築的なものとなっている。 反復と不可逆な変化 この映画は、春から夏、秋から冬、マニュの…
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1945年作『偽れる装い(Falbalas)』について。 装うことと映画監督 ファッションデザイナーであるフィリップは彼にとってのミューズを探し続けている。ミューズと見做した女性を見る時、フィリップは現実世界の…
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1953年作『エストラパード街(Rue de l'Estrapade)』について。 『エドワールとキャロリーヌ』との比較 話の骨格や緩いリズム感含めて『エドワールとキャロリーヌ』とほとんど同じ映画。『エドワールとキャロリ…
ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1951年作『エドワールとキャロリーヌ(Edward and Caroline)』について。 リズムのズレと断絶 上流階級出身のキャロリーヌと貧しいピアニストのエドワールは仲が良さそうに見えて、価値観が全く噛み合っていない…
エリック・ロメール(Eric Rohmer)による1959年作『獅子座(The Sign of Leo)』について 迷宮、パリ、獅子座 音楽家志望で40歳を間近にした主人公は未だにモラトリアムにあり、自分から何かを解決しようとしない。それは主人公が占星術を信じその結果に従…
オードレイ・ディヴァン(Audrey Diwan)による2021年作『あのこと(Happening)』について。 シンプルな物語構造によってサスペンスを維持する、『ゼロ・グラビティ』のようなアトラクション映画であり、そのアトラクション性によって中絶が違法だった時代…
アラン・レネ(alain resnais)による1986年作『メロ(melo)』について。 夫婦であるピエールとロメーヌの元にマルセルが訪れる。マルセルは有名なヴァイオリン演奏家で、同じくヴァイオリン演奏家であるピエールとは若い頃からの親友である。マルセルは二…
ジャンヌ・ディエルマンは、夫と死別し、娼婦として働きながら息子を育てており、タイトルはジャンヌの住むアパートメントの住所を指したものである。一地点をピン留めするようなタイトルの通り、ジャンヌはそのアパートメントを中心とした生活圏、そしてそ…
アニエス・ヴァルダ監督による1987年作『カンフー・マスター!』について。40代の女性であるマリーと、その子供の友達である10代の少年であるジュリアンという、恋愛の時期が終わりつつある人とそれが始まりつつある人の間の恋愛を軸とした映画となっている。
アニエス・ヴァルダによる2000年作『落穂広い』について。「落穂拾い」とは収穫されずに残った食べ物を拾う人を指す言葉であり、この映画では「落穂拾い」を捨てられたもの、使われないもの、つまり社会的に有用でない、価値のないものを拾う人々として、ア…
アニエス・ヴァルダによる1985年作『冬の旅』について。夏の間はヴァカンスで賑わう街が舞台となっているが、季節は冬である。ヴァカンス地で冬も暮らしている人々は逃避先がない、つまり同じ場所で同じ生活を続けるしかない人々である。そのような街の人々…
シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分…
シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時…
エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している…
エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。…
エリック・ロメール監督による1954年作『ベレニス』について。変化のない屋敷に壮年期まで住み続けたことで、夢想することによってその屋敷から幻想へと逃避する主人公。その逃避は、屋敷の何かについて偏執的に分析(瞑想)することによって行われる。
3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その…
ジャック・リヴェットによる1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そしてジャック・リヴェットの映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこ…
ジャック・リヴェット監督1961年作『パリはわれらのもの』について。演劇を通して世界の秘密を見つけ出そうとしているようなジャック・リヴェットの作品群の中では、その秘密のある空間へと入っていけそうになるが、そもそもその内部に秘密があったのかもわ…
ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。
ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっ…
ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。
ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。