フランス映画

シャンタル・アケルマン『ブリュッセル 1080コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』における生活空間の崩壊

ジャンヌ・ディエルマンは、夫と死別し、娼婦として働きながら息子を育てており、タイトルはジャンヌの住むアパートメントの住所を指したものである。一地点をピン留めするようなタイトルの通り、ジャンヌはそのアパートメントを中心とした生活圏、そしてそ…

アニエス・ヴァルダ『カンフー・マスター!』再生産される社会・関係性

アニエス・ヴァルダ監督による1987年作『カンフー・マスター!』について。40代の女性であるマリーと、その子供の友達である10代の少年であるジュリアンという、恋愛の時期が終わりつつある人とそれが始まりつつある人の間の恋愛を軸とした映画となっている。

アニエス・ヴァルダ『落穂広い』拾い合う落穂

アニエス・ヴァルダによる2000年作『落穂広い』について。「落穂拾い」とは収穫されずに残った食べ物を拾う人を指す言葉であり、この映画では「落穂拾い」を捨てられたもの、使われないもの、つまり社会的に有用でない、価値のないものを拾う人々として、ア…

アニエス・ヴァルダ『冬の旅』空洞の街

アニエス・ヴァルダによる1985年作『冬の旅』について。夏の間はヴァカンスで賑わう街が舞台となっているが、季節は冬である。ヴァカンス地で冬も暮らしている人々は逃避先がない、つまり同じ場所で同じ生活を続けるしかない人々である。そのような街の人々…

シャンタル・アケルマン『囚われの女』解体されるハードボイルド

シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分…

シャンタル・アケルマン『私、君、彼、彼女』における君=彼について

シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時…

エリック・ロメール『シュザンヌの生き方』日常における支配

エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している…

エリック・ロメール『モンソーのパン屋の女の子』決定論と自由意志

エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。…

エリック・ロメール『ベレニス』無意識に乗っ取られる理性

エリック・ロメール監督による1954年作『ベレニス』について。変化のない屋敷に壮年期まで住み続けたことで、夢想することによってその屋敷から幻想へと逃避する主人公。その逃避は、屋敷の何かについて偏執的に分析(瞑想)することによって行われる。

パトリック・ボカノウスキー『太陽の夢』擬似太陽としての映画

3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その…

ジャック・リヴェット『修道女』別世界としての演劇 / 鑑賞者の位置

ジャック・リヴェットによる1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そしてジャック・リヴェットの映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこ…

ジャック・リヴェット『パリはわれらのもの』集団的パラノイアの内部

ジャック・リヴェット監督1961年作『パリはわれらのもの』について。演劇を通して世界の秘密を見つけ出そうとしているようなジャック・リヴェットの作品群の中では、その秘密のある空間へと入っていけそうになるが、そもそもその内部に秘密があったのかもわ…

ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』オルガは誰か / 3つの切り返し

ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。

ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』非人間的な手作業と抵抗

ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっ…

ロベール・ブレッソン『湖のランスロ』近代社会の二重の破滅

ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。

ロベール・ブレッソン『やさしい女』閉じ込められていく過程

ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。

ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』アンナ・カリーナ時代の終わり

ジャン=リュック・ゴダール監督による1965年作『気狂いピエロ』について。ゴダールがアンナ・カリーナと共に映画を撮っていた時代、そしてその終わりを描いた映画として。

ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』鳥としての少女

ロベール・ブレッソン監督による1967年作『少女ムシェット』について。冒頭の鳥と同様に、ムシェットは地べたでの生活をしており、どこに行っても罠がある。その中で、物理的にも雨に打たれて泥まみれになるのが描写されていく。母親の死と強姦によって周囲…

ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』無力な存在

ロベール・ブレッソン監督による1966年作『バルタザールどこへ行く』について。幸せそうな家庭があり、ほとんど結ばれてるような幼馴染がいて、大切に飼われているロバがいるという理想的な状況がある。しかし、その幼馴染は結ばれず、家庭は破産し農具が近…

ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』象徴させない演出

ロベール・ブレッソン監督による1962年作『ジャンヌ・ダルク裁判 』について。カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』が権力差や体制の暴力性、内的な葛藤など、裁判に関わる要素の象徴的な演出に溢れていたのに対して、この映画は主軸の3人、…

レオス・カラックス『アネット』 映画に映画の終わりを語らせる

映画に映画の終わりを語らせる映画として、レオス・カラックス監督2021年の映画である『アネット』について。演じることと笑わせることが対になる。演じることで観客の代わりに死ぬ妻と、観客を笑わせることで殺す夫。そしてその妻には自分の代わりに死んで…

モーリス・ピアラ 『Graduate First』 牢獄としてのモラトリアム

モーリス・ピアラによる1978年の映画である『Graduate First』について。That’s life という言葉が親から何回か出てきて、その子供たちがその that を反復して再現していくような繰り返しの話。そういう空気感だからこそ、写真モデルを親が断った時に、将来…

モーリス・ピアラ 『ルル(Loulou)』 映画を通した内省シミュレーション

モーリス・ピアラによる1980年の映画『Loulou』について。嫉妬したら反射的に感情的になるような決定的な自己肯定感の低さを持ちつつも、それは過去の経験によって嫉妬がパーソナリティに深く刻まれたからで、本来は優しい人だったように見える男がいる。そ…

モーリス・ピアラ 『開いた口』 物質に向かう死と再生産される家庭

モーリス・ピアラによる1974年『開いた口』について。母が病気でジリジリと動けなくなって死んでいく映画。冒頭の直感的に死を自覚してる母とそれを知ってる子の間の会話の気まずさと親密さが同居する会話のセンチメンタルさに対して、それ以降その母の死に…