シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時…
シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分…
ポール・トーマス・アンダーソン監督による2021年作『リコリス・ピザ』について。広告が主軸としておかれており、この映画で描かれるアメリカにおいては芸能人や商品のPRとして自己増殖していく擬似イベントが根付き切っている。理想がイメージに置き換えら…
エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している…
エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。…
エリック・ロメール監督による1954年作『ベレニス』について。変化のない屋敷に壮年期まで住み続けたことで、夢想することによってその屋敷から幻想へと逃避する主人公。その逃避は、屋敷の何かについて偏執的に分析(瞑想)することによって行われる。
ジョセフ・コシンスキー監督による2022年作『トップガン マーヴェリック』について。マーヴェリック=トム・クルーズとしてトップガンに絡む過去の関係性を清算しつつも自身の映画製作を次世代へと継承していく映画となっている。
『ソー:ラブ&サンダー』は何を語ろうとしていたのか。神と人間、そしてローマの神とヴァイキングの神という対比、そしてソー及びアスガルドのアイデンティティの再獲得を軸に、続編がどういう話になるかを含めて書いています。
映画全体のナレーターがエルヴィスプレスリーのマネージャーとなっていて、そのマネージャーの病床での回想という形で映画が始まる。そのマネージャーはエルヴィスプレスリーを搾取していてその死の原因もそのマネージャーにあると考えられていることが語ら…
主人公は序章で医学から心理学に変え、そこから本屋でアルバイトしながら写真家を志すようになり、終章では職業写真家としてのキャリアを築き始めている。1人目の恋人であるアクセルとの出会いを除けば、序章と終章だけで主人公の客観的な過程は説明されてし…
状況に対して何もできず流されるしかない、それに対して諦めていて何の感情も抱いていない、周囲の人間たちから諦めている主人公が映画的な出来事に巻き込まれるようになる。そこで関係性や自身への肯定を得たことによって、その後も変わらない流されること…
3パートに分かれた映画で、自分のことを小さい頃から知っていて自分のことが好きだろう看護師に対する演技の抱擁、そしてドイツでの彼女への本当の抱擁、そして別れた彼女への夢の中での抱擁というパートごとに存在する主人公にとっての意味が異なる抱擁で緩…
主人公は17歳のとき、自殺しようとする直前に目の前に広がる世界が全て美しいものに見えるという宗教的な経験をしたことから、自分の目の前にあるものしか見ない、過去や既に起きたことには目を向けないように自身を律して生きることを決めている。そして、…
3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その…
『ストレンジャー・シングス』は主人公達をテンプレ的な人物像から解放するドラマであり、それが大きな魅力となっている。そして、主人公達と対置されるソ連、研究所、そしてS4で登場した陰謀論者達は全体主義的な構造によって共通する。そして、アップサイ…
ジャック・リヴェットによる1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そしてジャック・リヴェットの映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこ…
ジャック・リヴェット監督1961年作『パリはわれらのもの』について。演劇を通して世界の秘密を見つけ出そうとしているようなジャック・リヴェットの作品群の中では、その秘密のある空間へと入っていけそうになるが、そもそもその内部に秘密があったのかもわ…
ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。
MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品について、今そもそも何をしているのか、これから何するつもりなのか、特になぜここまでメタ構造にこだわっているのかを考えた文章になります。流れとしては、まずインフィニティ・サーガが大きな物語を描く…
濱口竜介監督による2021年作『偶然と想像』における想像の置かれている位置を、この映画が "言葉によるセックス" についての映画であるという点から考える。そして、それを元になぜこの監督がロベール・ブレッソンの方法を用いているのかについて考える。
濱口竜介監督による2015年作『ハッピーアワー』について。相手の目から世界を見ること、そのテーマを映画自体が体現している。
濱口竜介監督による2012年作『親密さ』。渡されずに落ちていた想像力が拾われ、演劇や詩、映画になることについて。
ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっ…
ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。
ロベール・ブレッソン監督による1969年作『やさしい女』について。主人公が絶望に至る過程を撮った映画である一方で、監督自身の方法論によってこの映画自体が劇中のマクベスと重ね合わされ、ある種の希望のようになっている。
ジャン=リュック・ゴダール監督による1965年作『気狂いピエロ』について。ゴダールがアンナ・カリーナと共に映画を撮っていた時代、そしてその終わりを描いた映画として。
タル・ベーラ監督による1977年作『ファミリー・ネスト』について。3つの家族が住む家があり、その家を共産主義国家であるハンガリーの比喩とする。父は実質的な権威は失われていて家庭内の問題を解決することもできない。そして、その権威と崩れゆく家を抑圧…
エドガー・ライト監督による2021年作『ラストナイト・イン・ソーホー』について。冒頭、地方に住み、60年代のロンドンに憧れる主人公は鏡を通して自身の姿を映画の主人公に重ねる。そして、デザイン専門学校に入学するためロンドンに移り住む。そして鏡を通…
クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『愛に関する短いフィルム』について。愛に対して理想的な人と現実的な人についての映画。主人公は自分、他者への解像度が低く、他者との関わり方がわからない。それゆえに愛を理想的に信じている。主人公が…
クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1988年作『殺人に関する短いフィルム』について。意図的に他者に対して嫌がらせをしているタクシードライバーがおり、より加害欲求を拗らせた存在として主人公がいる。それに対して社会の上層に属する存在として弁護…