モーリス・ピアラによる1978年の映画である『Graduate First』について。
牢獄としてのモラトリアム
『アメリカングラフィティ』とか『バッドチューニング』的なハイテンションかつセンチメンタルなモラトリアム卒業群像劇かと思いきや、モラトリアムの終わり=人生の死になるような狭いコミュニティの田舎に生きる若者達が無理やり躁を演じてるような、その死に向かってくような乾きと重さのある映画だった。
That’s life という言葉が親から何回か出てきて、その子供たちがその that を反復して再現していくような繰り返しの話。そういう空気感だからこそ、写真モデルを親が断った時に、将来が完全に断ち切られてその that を今後も反復していくしかなくなってしまったような心に重くくる感覚がある。そして、最後に現れる映画的には気持ちいいはずのループにも、一年逆行しただけのような徒労感を感じる。
「君には期待してる」ような振る舞いしてたはずの教師が、去年と全く同じ内容で哲学の講義をして、同じ振る舞いを毎年繰り返していただけだとわかる瞬間、そのバックに映る机の無数の落書きがその将来に変化を望めないただただ無為な繰り返しの象徴のように見える。モラトリアムが永遠に反復される牢獄となる。そして、この地元に住み続ける限りはその牢獄から出られない。その中でパリに向けて不安定に動く車の唯一の開放感。
他作品との関連
モーリス・ピアラによる『開いた口』について。この映画では『Graduate First』でのモラトリアムが母が死んでいくまでの時間と対応しているように感じる。そして、牢獄のモチーフは動けない母、そしてその母含めた女性達の家庭での動けなさ、そしてその家庭環境が受け継がれ再生産されることと対応しているように思う。
同じ監督による『Loulou』について。ここでの牢獄として反復されるモラトリアムが人を変えても再生産される恋愛、その性格による出口のなさと対応しているように感じる。
感想 / レビュー
何か決定的に終わっていってるのにそれがドラマ化せずに暇な時間として過ぎていく感覚が前作と共通してるように感じる。
ポストヌーヴェルヴァーグでリアリズムでって点でユスターシュと比較されがちらしいけど、カメラの前にあるものを捉えようとするのか心象風景を再現しようとするのかの違いがある感じがした。そう考えたらフィリップガレルも中期以降その二人と同じところにいるように思う。ヌーヴェル・ヴァーグの映画群にあった戦後の社会の変化とそれに伴う感情の揺らぎや煌めきみたいなものは無くなって、その二日酔いのようなただ変化のない徒労感、ダルさのみがあるような感覚。