レオス・カラックス『アネット』 映画に映画の終わりを語らせる

映画に映画の終わりを語らせる映画として、レオス・カラックス監督2021年の映画である『アネット』について。

映画に映画の終わりを語らせる

演じることと笑わせることが対になる。演じることで観客の代わりに死ぬ妻と、観客を笑わせることで殺す夫。そしてその妻には自分の代わりに死んでもらうこと、夫には自分を殺すことを望む観客。しかし観客はその夫が自分達以外を殺すこと、妻が自分達以外のために殺されることは拒否する。 そして夫にとっての愛することは笑わせることであり、殺すことである。そのためその三者は夫が妻を殺し観客がその2人を見捨てることに帰結する。

そしてコメディアンは監督自身の映し鏡であるアレックスであり、『ホーリーモーターズ』ではアレックスは映画となっている。愛することが笑わせることであり殺すことでもあるという行動原理はアレックスと共通するものでもある。そのため、コメディアン=監督=映画となる。過去の映画がそのままもしくはオマージュを通して何度も引用されることで、このいずれ死に向かう観客と役者、コメディアン=監督=映画の構図が過去に作れられてきた映画とも接続される。

その構造の中で役者とコメディアンの両方を併せ持つアネットが生まれる。父の操り人形だったアネットは操り人形であることをやめ、父が人殺しであり誰も愛することができないことを突きつける。それは監督自身に向けられた言葉でもあり映画に向けられた言葉にもなっている。そして、そのコメディアンが映画の観客に対して「俺を見るな」と言って映画が終わる。

『ホーリーモーターズ』と同じく、映画に映画の終わりを語らせる映画。ただただ虚無に終わりを見ていたようなホーリーモーターズに対して、この映画では操り人形を脱したアネットが次の時代への希望のように存在する。また、「良き旅を」と言って登場人物達を映画の中に送り出すメタ的なオープニングから始まり、最後に全員が帰っていくようなメタ的なエンディングで終わることで、終わりに向かっていくものだとしてもその過程は良き旅だったのかもしれないという感覚が微かに残る。

感想 / レビュー / その他

1回目のスタンドアップコメディでは「自分も殺されてお辞儀することができる」っていうセリフを言えるように、役者である妻との差異を客観的に把握できていて観客も笑わされている一方で、2回目は妻を殺す話になっていて、それがコメディアンの妻への愛が笑わせることから殺すことへと段々と客観的な視点が失われつつ変化していく過程と対応している。

この子供が生まれることに関連したこの不安的な愛への変化のような過程と、それに対応した演出が本当に良かった。特に1回目のスタンドアップコメディのシーンはミュージカルとスタンドアップコメディの行き来や観客の操作、アダムドライバーの異形のまま縦横無尽に変化していくような声と動き、身体含めて最高で、撃たれるくだりから「… and bow」で一気に身体が横に長く広がってお辞儀になるそのセリフのフローと身体の動きの流れが一番印象に残っている。個人的に前半が良すぎたため、過去、特に戦前の映画の引用が続く後半が少し霞んでしまった。同じ映画内で作りが何度も変化していくのもあって、この監督の映画はどれも自分にとって最高な部分とそうじゃない部分が共存してる感じがある。

ドニラヴァンは何かドットの荒いカクカクしたような身体的な縦横無尽さがあって、それが疾走感だったり暴力性だったりに繋がっていたように思うけど、アダムドライバーは逆にぬるっとしたスライム的な縦横無尽さがあり、ターミネーター2の敵のような本能的な怖さや気持ち悪さがある。どちらも良い。今回アダムドライバーが「類人猿の神」と呼ばれているように、この監督の映画の主人公は原始的、野生的で、何か身体的な動きの異様さがある(ドニラヴァンのでない『ポーラX』でも段々と動きが不自由になる)。それと対比的にバイクの直線的な動きがあったり、『ポーラX』だとその発散のように不協和音のオーケストラが出てきたりなど、その主人公の動きを軸に映画内の運動が組み合わされている感覚がある。

https://www.artforum.com/film/amy-taubin-on-leos-carax-s-annette-2021-86173