バーバラ・ローデンによる1970年作『WANDA / ワンダ』について。
映画的な出来事
状況に対して何もできず流されるしかない、それに対して諦めていて何の感情も抱いていない、周囲の人間たちからも諦められている主人公が映画的な出来事に巻き込まれるようになる。そこで関係性や自身への肯定を得たことによって、その後も変わらない流されることしかできない人生に拒絶感や虚無感を抱くようになるという映画。
映画を見に行ったことをきっかけに、監督という神により作為的に起こされた奇跡のような映画的な展開へと巻き込まれていくという展開。その経験が救いに繋がらず、映画の内外関わらず始まりも終わりもなくただひたすら繰り返されていく受動的な移動。
この映画において主人公は炭鉱夫の妻である、貧困層であり女性であるというところから始まるが、そうじゃなくても違う形で同じような物語を想像できるような感覚がある。親や宗教的な信念の不在は感じられるが主人公の存在に対してそれが決定的な意味を持つこともない。主人公は属性、社会背景によって因果的に生み出されたものではなく、無力さとそれに伴う受動性によって特徴づけられた存在としてそこから独立して存在しているように感じる。
そこに映画内で設定された状況があり、その状況に沿って主人公は動かされ、映画的な出来事の発生を通して宗教や擬似的な父親との出会いを果たし、主人公はそれによって自身と状況に対する因果、物語な意味を見出すようになる。そして主人公は自発的に行動することになるが、それはそれまでの自分とかけ離れたものであり、嘔吐するほど自身の実存を揺るがすものとなっている。
観客でしかない主人公
ただ、現実世界はその男との計画が失敗するように予め設計されている。主人公はその状況に対するレジスタンスとして殉教することもできず、映画的な存在であるその男の殉教を複数の傍観者の中の一人、TVの前の一人として見ることしかできない。主人公はずっとその男を主役とした映画の観客のままである。
映画的な出来事を経て、主人公の状況に対する認識だけが変化する。状況に対する無関心さ、無気力さはそれに対する拒絶、虚無感へと変化する。主人公は映画の始まる前から終わった後も牢獄の中にいて、その牢獄の間を受動的に移動させられていく。映画的な出来事、映画的な存在との出会いは観客である主人公の救いに繋がらない。
予め現実世界として与えられた状況に対してひたすら無力であることについての映画で、監督がメタ的に引き起こす変化、その変化によってもたらされた自発的な選択すらその状況に対しては無力なものであり、現実世界は何も変わらない。主人公の生活も変化せず同じように繰り返されていく。
アメリカン・ニューシネマとの関係性
『勝手にしやがれ』やアメリカンニューシネマとどのように並走していたのかわからないけど、そのような映画の中での主役的な存在、それに従う女性について批判的に描かれている映画のように感じた。主人公の嘔吐は主人公が映画的な存在になろうとする、自発的に行動しようとするシーンであると同時に、他者によって無理やりそう変わらされたということでもある。
役者として活動していたバーバラ・ローデンの監督作であり、彼女が役者として映画業界で感じたことも反映されているんだろうと感じる。