ヨアキム・トリアー監督による2021年作『わたしは最悪。』について。
映画として留められる記憶
主人公は序章で医学から心理学に変え、そこから本屋でアルバイトしながら写真家を志すようになり、終章では職業写真家としてのキャリアを築き始めている。1人目の恋人であるアクセルとの出会いを除けば、序章と終章だけで主人公の客観的な過程は説明されてしまう。それに対して、この映画は主人公が終章に至るまでの内的な過程を描くものとなっている。
劇中で言及されるように、主人公は感情の人であり視覚の人である。主人公は何かを論理的に考えるというよりは、流れに身をまかせてしまう中で感覚的な判断が定まった、啓示を受けたかのように不意に選択を行う。そして、その時に見える空はいつもとは違うものとなっている。その時に得た感情はその時だけのものであり、その感情によって見えたものもその時にしか見れないものであり、記憶したとしてもその人の中にしか存在しない。死ぬ間際のアクセルが言うように、それは死ねば失われてしまうものである(「僕が死ねば記憶の中の君も消える」)。
主人公の主観的な過程をただただ切り取ったようなこの映画は、その主人公のいつかは消えてしまう記憶を永遠に留めようとしたもののように感じられる。そしてその過程において、主人公もまたその瞬間を留めるメディアとして写真を選ぶようになっていく。この主人公の主観をトレースしたような映画の中には、そうなっていくことが痛いほどわかるくらい記憶に留めておきたい瞬間がある。
終章において、主人公はわかりやすく演技をしろという監督の指導の元下手な演技をしてしまった役者のスチール写真を撮る。その時に、その演技する役者ではなく、下手な演技をしてしまったことを悔やんでいるその人、その瞬間にしかないその人の感情を撮ろうとする。それは主人公が映画内で描かれた過程を経て辿り着いたものを象徴するものであると同時に、この映画自体を象徴するものともなっている。
主人公の揺らぎ
この映画には、世間的には良いとされる姿が重石のように存在している。それは典型的な幸福な家庭だったり、環境問題に自覚的であることだったりするが、どれもセルフブランディング、皮を被った自分の姿を他者に見せるという点で共通する。
主人公は幸せとされているものに幸せを感じない人として、その良いとされる姿に収められたくないという気持ちと収まった方がいいのかもしれないという気持ちの間で葛藤し続けているように感じる。それは自身の書いた文章への2人目の恋人であるアイヴィンの「繊細な文章だ」という世間的に良しとされている基準にのっかった評価への拒絶にも繋がる。
1人目の恋人であるアクセルと2人目であるアイヴィンは対照的な人物としておかれている。アイヴィンが社会問題に自覚的で行動もしている一方で、アイヴァンは前時代的な人間、パンクス的な人間としてその良いとされているものに対して反発する。アクセルが自分を貫くのに対してアイヴィンは相手に考えを合わせる、影響されることができる。一方で、アクセルは家族に関しては非常に保守的な人物となっている。
揺らぎの中にいる主人公は、その良いとされるものに反発し、それが職業として生き方になっている、揺らいでいないアクセルといることで、自分は傍観者で脇役であることを自覚する。それを象徴するように、アクセルと付き合っている間は窓の外から主人公を映したショットが頻出する。アクセルの望む家庭に落ち着くことは、そのまま脇役であり続けることを意味する。
そして、主人公はアクセルと別れアイヴィンを選ぶことによって主観的に自身の映画、つまり自身の人生の主人公となる。その瞬間、それを象徴するように映画、ファンタジー的に主人公とアイヴィン以外の時間がとまる。アクセルといることが良いとされるものに収まらないことに近づくことを意味するとすれば、アイヴィンといる時はそこに収まることに近づくことを意味するようになる。
主人公はアイヴィンを選ぶことで映画の主人公になるが、良いとされる典型的な主人公になることは拒否する。マジックマッシュルームによる幻覚の中で、主人公が抜いたタンポンを父に投げると、それに引いて驚く観客の姿が映される。そして、主人公は前時代的だと叩かれるアクセルを見て、またその良いとされるものへの反発へと戻りつつあるように見える。
主人公の葛藤は妊娠することによってピークに達する。久しぶりに会ったアクセルは死を目の前にしていて、自身の過去へと立ち戻っている。そのアクセルとの記憶にまつわる対話を通して、主人公は映画の主人公でも脇役でもなく撮る側になること、そして演じられた姿ではなくその瞬間にしかない感情、記憶を撮ることを選ぶ。それは主人公の映画を通した葛藤からの解放となっている。その解放は流産による解放と重ねられる。
感想 / その他
主人公は最終的にはアクセルである監督と一致することになる。タイトルで示される最悪な人はアクセル、主人公であり監督自身のことなんだろうと感じる。監督の年齢がアクセルと近いことを考えれば、今の自分と昔の自分が対話しているような映画になっているように思う。だからか、主人公の主観であるはずのこの映画にかなりアクセル自身の感情が入ってきてしまっているような、何かアクセルが自分を省みながら創造したひと回り下の女性を見せられているような感覚がある。それはその監督が過去の自分と対話するという構造による必然であると感じると同時に、その女性が”今現実に存在する30代前後の女性像”として描かれるため少し気持ち悪さも感じた。
あと、幻覚のシーンで主人公の内面をほとんど描写、説明してしまうのも少し苦手だった。主観が現実から飛躍する瞬間として、ファンタジー的な時間の止まるシーンに対して悪夢的なものとして対置したってことなんだろうか。
映像的な面ではポール・トーマス・アンダーソンが絶賛する理由はいまいちわからなかったけど、主題的には『インヒアレント・ヴァイス』や『リコリス・ピザ』の文脈だと思うとしっくりくるような気もする。