カール・テオドア・ドライヤー監督による1928年『裁かるゝジャンヌ』について。
システムとしての体制、人間としてのジャンヌ
ジャンヌを神の啓示を受けた19歳の少女とする。そのジャンヌが体制にひたすら蹂躙されるように命と信仰のどちらをとるかを試される。尋問が長引くにつれ葛藤も長引き、精神的に弱っていく。その過程で怒り、絶望、希望、諦め、死の受容と拒否を経験し、その結果として最後の決断がある。その精神的な葛藤の過程をひたすら映す映画。
ジャンヌに対してシステムとしての体制が置かれる。劇中に拷問の歯車が現れるが、体制側の全員があたかもそれと同様にシステムのパーツの一つのように、制度の上に沿って運動するものとして映される。人の顔など有機的であるはずのものを含め、全てが静物的、オブジェのようになっており、それらを象徴的に移していくことで意味が付与されていく。そしてそのモチーフ達はラストに向かうにつれ黙示録的な印象を帯びるようになっていく。それに対し、ジャンヌのみが唯一人間的に映される。また、ジャンヌのみが上からのアングルで映され、それに対する体制は下から映される。
ジャンヌは自分の命ではなく信仰を選ぶ。その決断に対して、体制は手続きのように非人間的に火刑の準備を進める。上からのアングルで映されていたジャンヌはここで、下からのアングルで映されるようになる。それによって体制のシステマティックな運動の中に還元されていってしまう感覚がある。
しかし、ジャンヌが恐怖に耐えながら火に包まれる中で、そこからも救済され解き放たれたようになる。決断の結果として、システムへの還元、そして解放という二重の転換がある。しかし、ジャンヌの死によって体制は強化され、残された社会、ジャンヌの支持者達は解放されたジャンヌとは違い、そのシステムとしての体制に飲み込まれていく。
感想 / レビュー / その他
イメージフォーラムフェスティバル2021で、石橋英子とジムオルークの演奏で見た。黙示録的である一方でカタルシスを禁止するように盛り上げて抑えてを繰り返す演奏になっていた。それによって、この映画が過程をただただ禁欲的に繰り返していく映画であるような印象を持った。
2021年の10月というタイミング、全体主義的なものへと変容していく上部とそれに対する不満が募る下部という形で分離が進んでる社会において上映される映画として非常にしっくりきた。音楽も映画も緊張感が強く、非常に最高な映画体験になった。
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