カール・テオドア・ドライヤー『奇跡』 受け継がれる信仰

カール・テオドア・ドライヤー監督による1954年作『奇跡』について。

受け継がれる信仰

父、仕立て屋に代表される2つの宗派があり、対立している。どちらも自然法則に逆らえないと考えていることは共通している。インガの死が中心となるが、どちらの宗派にとっても、自然は神が作ったものであるため自然に逆らうことを願うのは神への冒涜になる。

だから父は神に自然法則に則ってインガを死なせないことを願う。仕立て屋の方はインガの死を自然によるものとして、自分のせいだとは感じていない。さらに2人の息子や医者はその自然法則を当たり前のもののように感じている。その逆らえない自然、神による法則を現すように赤ちゃんを切る音、インガの苦しむ声、時計の音が鳴る。

インガは父、仕立て屋とは違う形の信仰を持っている。それは、小さな奇跡が色んなところで起きているという愛のようなものである。

それに対して、ヨハンネスが預言者、神の代理としてその自然法則を変えられるような存在として現れる。さらに、天使と共にいるような存在として子供がいる。冒頭の丘、子供がドアから出てくる瞬間、ヨハンネスの周りをカメラがゆっくり回る瞬間など、カメラがその2人を映す時に明らかに神聖、異様な画面の動きになる。

インガの死において、その神による自然の動きとヨハンネスの信仰が一致する。それを表すように車のライトと音が死神が鎌を振り下ろすように聞こえるし、見える。

自然法則を超えられることを当たり前のように知っているヨハンネス、自然法則をまだ知らない子供によって奇跡が起こされる。

それに対して信仰の違いを理由に対立していた二つの家を和解させるのは、互いの倫理観や対人間としての相手への愛情や想像力になっている。そして和解のきっかけはインガが全員に与え続けていた愛のようなものである。

インガの死と奇跡による生き返りを経験することで、無信仰だった夫はインガと同じ信仰を持つ。インガの死、ヨハンネスと子供による奇跡を媒介にして、インガの信仰がその他の登場人物に受け渡されていくように終わる。

他作品と併せて

裁かるゝジャンヌ』『怒りの日』では体制による信仰に対して、それとは違う形の主人公の信仰が対置されていた。そして、この映画では父や仕立て屋の信仰が前者に、インガの信仰もしくはヨハンネスの信仰が後者に対応するように感じる。

そして、父や仕立て屋の信仰、そしてヨハンネスの信仰などと並列に語られつつも、最後に全員を結びつけるのはそのインガの愛への信仰となっている。タイトルによってヨハンネスが中心のように見えるが、インガの信仰を中心とした話になっている。この愛への信仰のようなものは遺作である『ゲアトルーズ』においても主人公の信仰の形として、中心的なテーマとなっているように思う。

感想 / レビュー / その他

見入ってしまった。『ゲアトルーズ』でも同じことを感じたけど、この監督の愛への信仰のような物があまり掴めなくて、感動したと同時にすごく遠く感じた。2つとも人生をもっと生きてから見返したい。

3種類くらいしかないカメラの高さと角度の組み合わせ、素早く動き瞬間はあるけど基本的に動かずに動く時はひたすら遅いカメラの移動、背景色が黒か白かの違い、人か時計か家の外かしかない音、カメラが先走って動くか人が先に動くかとか、最小限の要素で組み立てられている感覚があった。奇跡が起きるか起きないか、インガが動き出すのを期待するように何度もインガを正面からずっと動かずに映す画面が印象的だった。

自然的に助かるのを期待する父の信仰、夫の自然への従順さと諦め、さらに超自然的なヨハンネスの信仰という、信仰があるかどうか、自然を超えられるかどうかの2軸でそれぞれ相容れない3つの考え方がそれぞれ存在する。インガが死ぬ前のところでその3つの間で揺らぐ感覚があった。誰の考え方が叶うかを見守るように見ていたが、結局3人とも叶わない。その自分の中の何かを決定的に揺らがされている感覚が本当に良かった。

ブレッソンだったりこの監督だったり、なんか映画自体が異様さを持ってる映画の系譜があるような気がしていて、それがどこから繋がっているのかを知りたいと思った。ソ連映画からヌーヴェルヴァーグに至るフランス映画の流れとは根本から違う感じの。表現主義の先にあるように思うけど、撮り方としては明らかな断絶があるようにも感じるので、その間にどんな作品があるのかを知りたい。