内臓手術的体感 ー 小田香『鉱 ARAGANE』


小田香監督による2015年作『鉱 ARAGANE』について。

『伯林』『カメラを持った男』のような都市映画の形式をもった映画だが、それら映画とは真逆に、機械の運動はリズミカルではなく痙攣的。人間は機械の一部のように同期して動くのではなく、機械に対して外部の存在としておかれている。鳴る音は不快で、特に労働者の振り下ろすハンマーの打音、ダイナマイトによる爆破音は身体的な拒否感を伴って響く。

炭鉱の地上から、労働者と共にその地下へと侵入し、そして出てくるという構成。機械が炭鉱の一部のように撮られており、炭鉱があたかも人間によって一部機械化された一つの生き物であるように感じられる。人間はその生き物のような炭鉱・機械をその外部者として酷使し、内部に侵入し掘り起こす。機械の振動は戦慄した震え、作動音は呻き声のように響く。そして、トンネルによってその内部に入っていく過程は内臓の中を進んでいくようで、胃カメラの映像を見ているような、身体的な不快感を感じさせると同時に、何か気持ちよさをも感じさせる。そして、その先に辿り着く炭鉱深部、映される工事の光景はグロテスクでありつつも美しい。

炭鉱の深部に行き着いてからしばらく、行われる工事の光景をカメラは直視しない。光が当たらず、ピントも合わせない。おそらくダイナマイトを設置している雰囲気と音だけが感じられ、その爆破の瞬間も、爆破を映すのではなくスイッチを入れる男だけを映している。何か目の前でグロテスクなことが行われていて、そこから目を逸らしているような感覚をもたらす。

トンネル奥で行われる炭鉱開発は、誰かの内臓手術を見ているようなグロテスクさ、不快さを感じさせる。それは同時に美しく、目の離せないものでもある。それを見つめる視線は炭鉱・機械に共感的で、その発する音は直接身体へと伝わってくる。それによって、炭鉱・機械の内臓はそれを見ている自分の内臓と接続される。他人の身体が他者によって変容させられる様を、自分の身体を共感させながら見ているような感覚に陥る。

そして、労働者達の作業は粗雑で場当たり的に見える。実際にそうであることが労働者の一人の訴えからわかる。行われている内臓手術は、信頼できるかわからない医者によるもののようであり、自分の内臓と共感させられた炭鉱・機械の内臓に、取り返しのつかない失敗が起こるのではないかという不安、スリルが常にある。

見つめるうちに身体はその開発光景や音に慣れ、目も暗闇に慣れ始める。段々と不快感や拒否感が軽減されて行き、周囲の様々なものを見れるようになる。同時にその美しさも鮮烈さを失っていく。音はやがてやみ、工事も落ち着き始める。陽の光が入り込み始め、段々と炭鉱の外に向かって移動していることがわかる。炭鉱を出た外に広がるのは、内部とは対照的な雪景色であり、その後映される計画室も白い。その白さは手術後の病院のように感じられる。危険で重大な何かがやっと無事に終わったような、何か凄まじい出来事を終えたような余韻が残る。

しかし、この開発工事は一回きりのものではなく、日々繰り返されるものである。翌日、労働者達は再び地下に向かう。外部の人間である撮影者、観客はエレベーターの前で取り残され、労働者達が地下へと降りていく姿を眺める。その風景は、凄まじい何かを経験したことによって燃え尽きた、もしくは対象に感じた鮮烈さや興味を失ったかのように、無感情で見つめられる。