アニエス・ヴァルダ『カンフー・マスター!』再生産される社会・関係性


アニエス・ヴァルダ監督による1987年作『カンフー・マスター!』について。

あらすじ

雨の降る春の日、娘ルシー(シャルロット・ゲンズブール)のパーティで酔っぱらってしまった同級生の少年ジュリアン(マチュー・ドミ)を介抱したマリー・ジェーン(ジェーン・バーキン)は、25歳年下の彼に恋をしてしまう。偶然通学路でジュリアンに再会したマリー・ジェーンは、テレビゲーム“カンフー・マスター!”に夢中になっている彼に心魅かれるが、ジュリアンもマリー・ジェーンにほのかな想いを寄せていた。ジュリアンに電話で呼び出されたマリー・ジェーンは、そこがホテルだったので、二度と彼と会わないと決意するが、ジュリアンはルシーと親しくなり、ロンドンのマリー・ジェーンの実家でイースター休暇を過ごすことになる。しかしイースターの朝マリー・ジェーンとジュリアンの口づけの現場をルシーに目撃され、非難されたふたりは、ルシーの妹のルー(ルー・ドワイヨン)を連れて無人島を訪れることにする。しかしふたりの夢の時間も長くは続かなかった。旅が終るとジュリアンは家族に転校させられ、マリー・ジェーンと会うことを禁止させられる。彼への想いを断ち切ろうとマリー・ジェーンは苦しむが、ジュリアンは何事もなかったかのように思い出を友達に話すのだった。

https://moviewalker.jp/mv15563/

カンフー・マスターが象徴するもの

40代の女性であるマリーと、その子供の友達である10代の少年であるジュリアンという、恋愛の時期が終わりつつある人とそれが始まりつつある人の間の恋愛を軸とした映画となっている。

ジュリアンが夢中になっている "カンフー・マスター!" というゲームがメインのモチーフとしておかれている。それはカンフー・マスターが敵を倒しながら上の階へと進んでいき、そこに捕われた姫を救い出すゲームである。ジュリアンとマリーが出会うのはマリーの家でのパーティであり、ここでマリーは家の上の階におり、その窓からジュリアン達のいる庭を見下ろしている。このシーンでの位置関係に反映されているように、 "カンフー・マスター!" における姫はマリーであり、それを救い出すカンフー・マスターはジュリアンとなっている。姫であるマリーが捕われている家は、家庭だけでなくその社会によって規定された役割をも象徴する。この映画はその役割に閉じ込められたマリーをジュリアンが救い出すところから始まる。

文字通り子と親ほど年齢の違う二人の恋愛関係は社会から逸脱する行為、自然に反する行為だと見做される。マリーは規定された役割を抜け出すことによって社会から見放されるようになる。二人は無人島で二人だけの時間を過ごし、別れて元の社会へと戻っていく。ジュリアンは遂に "カンフー・マスター!" をクリアし、つまり姫を救い出しそのハッピーエンドだけを見届けて去っていく。しかし、"カンフー・マスター!" にはその続きがあり、救い出された姫とカンフー・マスターの間の幸せは続かず、姫はまた捕えられてしまう。ジュリアンは "カンフー・マスター!" をクリアしたことをマリーに伝えるように店員に頼むが、その連絡が届いたかも見届けず姫であるマリーを救い出したつもりになったまま、その恋愛経験を武勇伝のように新たにできた友人に話す。

マリーはジュリアンと出会う前は庭を含めた家の手入れをしていたが、別れてからはそれをしなくなる。マリー、そして手入れのされない家は、中盤に描写されたマリーの母親、そしてその家と重なるものとなっている。マリーはその家と共に母親へと同化していく。カンフー・マスターであるジュリアンに救われたマリーは束の間の幸せの後、また捕らえられてしまう。ジュリアンは男性的、強者生存的な社会に適合していき、マリーは元の役割へと再び閉じ込められる。

社会から逸脱していた二人が、それぞれの役割を再生産するようになってこの映画は終わる。そして、そのマリーの役割を規定するのはジュリアンが適合していく男性的、強者生存的な社会である。ここでジュリアンにとっての恋愛はゲームである。そして、"カンフー・マスター!" は決められた構造の中、姫を救うカンフー・マスターという物語がひたすらにループするゲームであり、それは社会構造によって恋愛から家庭へと繋がる関係性が世代にわたって再生産されていく様と重ね合わされる。ここで、姫は姫であることしかできず、カンフー・マスターはカンフー・マスターであることしかできない。そこから逸脱することは構造によって許されない。そして、その構造を強化しつつ保っているのはカンフー・マスターである。

時代のメッセージボトル

この映画の舞台はサッチャー政権が成立し、エイズが流行り始めた80年代を舞台としており、二人の関係性への周囲からの視線は同性愛に対するものと重ねられている。そして、男性的・強者生存的な社会へと適合していくジュリアンはサッチャーと重ねられる。この映画は逸脱した関係性の始まりからその終わりまでを描いた映画であるが、それは逸脱の許された時代からそれが許されなくなった時代への移り変わりを象徴したものとなっている。

さらに、サッチャーであるジュリアンが自身をヒトラーと同化させることで、ヒトラーからサッチャーへとカンフー・マスターとしての役割が再生産され続けていることが示される。その強者生存的で排除的な時代は "カンフー・マスター!" と同様、そこから逃れたとしてもまた、ループし繰り返し訪れるものである。政治もまた、恋愛関係と同様に構造によって反復され、人々はそれをひたすら再生産し続けるしかない。そして、姫を救い出すカンフー・マスターという構図はレバノンに勾留されたフランス人と、それを救い出そうとする軍とも重ねられる。ここにおいても、構造が変わらない限り、そこから救い出したとしてもまた捕らえられ、また救い出されるということが繰り返されるだけである。

「Are you ready to die for love?」という台詞とともに手渡されたAIDSのパンフレットをジュリアンはメッセージボトルとして海へと流す。それはジュリアンにとってその逸脱した恋愛関係から抜け出すことを象徴するものである。同時にそのメッセージボトルは、逸脱した関係性に社会的な死が伴うようになってしまった時代を先の時代へと伝えるものとして、この映画自体とも重ね合わされる。

作品詳細

  • 監督:アニエス・ヴァルダ / Agnès Varda
  • 作品:カンフー・マスター! / Kung-fu Master!
  • 製作:1987年 フランス

関連する記事

structuredcinema.com

structuredcinema.com

structuredcinema.com