アニエス・ヴァルダ『落穂広い』拾い合う落穂


アニエス・ヴァルダによる2000年作『落穂広い』について。

「落穂拾い」とは収穫されずに残った食べ物を拾う人を指す言葉であり、この映画では「落穂拾い」を捨てられたもの、使われないもの、つまり社会的に有用でない、価値のないものを拾う人々として、アニエス・ヴァルダが現代における落穂拾いを探していく。ここで、落穂拾い自身も撮られてこなかった存在、つまり落穂であり、そのような人々を撮るアニエス・ヴァルダも落穂拾いであると言う構造を持っている。そのため、現代社会における落穂拾いの人々についての映画であると同時に、落穂拾いとしてのアニエスヴァルダという作家自身についての映画にもなっている。

落穂に付与されていく意味

最初は落穂拾いである人々の生き方や取り巻く社会が映されていく。そして、その落穂は生産者などにとっては不要なものである一方で、それを拾うことで生活している人がいることがわかる。ここで、なぜ落穂広いが存在するのに落穂拾いを法的に禁じている場合があるのか、なぜ使えるものを捨てているのかが疑問として現れる。その疑問を解決するため、次は生産者をインタビューする。そして、生産者からすれば、価格崩落を防ぐため、品質を保ち消費者を守るため、周囲の治安を守るためなどの理由があることがわかる。実際に、拾うのを許可した結果拾う側のモラルが低下したり拾う側に害が出たりしていることも映される。そしてどちらにも法的根拠は存在し、白黒つけれる問題では無いことがわかる。そこからさらに、落穂に関連する社会問題、実際に起きた事件の背景、エコロジーアートなど、より広い視点で落穂について見るようになる。取り上げられる対象も若者や活動家など、様々な人へと広がっていく。映画を通して落穂に関する様々な文脈が現れていくことで、落穂が多面的な意味を持つようになる。

拾い合う落穂

インタビューはアニエス・ヴァルダが旅をしながら直接本人に聞いていくことによって行われていく。そして、背景となる社会やその構造を映していきつつも、アニエス・ヴァルダは落穂拾いの人々に寄り添った視点を持っており、それらの人々がどういう価値観でどういう背景があってどう生きているかを、旅で出会った友達のような視点から撮った映像が中心になっている。

そのインタビューを通して浮かび上がってくるのは、落穂拾いが同時に落穂でもあるという構造、そして落穂拾いたちが落穂である互いを拾い合って生活している姿となっている。それを象徴するのが、捨てられた食べ物で生活しつつも自分の作った教材で教育に恵まれない人々に対してボランティアで語学を教えている男性となっている。

落穂拾いとしてのアニエス・ヴァルダ

この映画は、落穂拾いを巡る旅についてのドキュメンタリーであると同時に、その旅をするアニエス・ヴァルダ自身についてのある種自分探しのような映画にもなっている。アニエス・ヴァルダは、自分の老いた姿を見つめながら、落穂拾いを巡る旅を通して、出来事や出会った人に対して起きる自身の感情の動きを観察し、自分の内面にあるものを見つけていく。

この映画は、風の吹く中嵐の落穂拾いの絵画をアニエス・ヴァルダが見るシーンで終わる。この絵画は美術館の裏に眠っていたものであり、この絵画自体が落穂であり、それを拾ったアニエス・ヴァルダは落穂拾いである。そして、この絵を描いた画家は嵐の中その落穂拾いを見たはずであり、それは風の中でこの絵画を見るアニエス・ヴァルダとも重ねられる。それは、落穂拾いについて深く知らないまま、美術館という室内で第三者として落穂拾いの絵を見ている冒頭でのアニエス・ヴァルダの姿との対比になっている。

この映画を通してアニエス・ヴァルダが辿り着くのは、自身もまた落穂拾いだということである。そして、この監督の映画はいつも落穂、そして落穂拾いである人々についての映画だったことに気付かされる。

作品詳細

  • 監督:アニエス・ヴァルダ / Agnès Varda
  • 作品:落穂広い / LES GLANEURS ET LA GLANEUSE / The Gleaners and I
  • 製作:フランス 2000年