禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ ー D・W・グリフィス『イントレランス』


D・W・グリフィス(David Wark Griffith)監督による1916年作『イントレランス(Intolerance)』について。

禁酒法 / 矯風会 / アル・カポネ

バビロン編、ユダヤ編、中世フランス編、現代アメリカ編という史実を元にした(と劇中で強調される)4つの物語で構成されているが、中心となるのは紀元前の物語であるバビロン編と現代アメリカ編となっており、ユダヤ編と中世フランス編はそれら二つを繋ぐ役割を担っている。 ”不寛容”である法と体制によって無実の青年が死刑を宣告される現代アメリカ編は、”不寛容”であるユダヤ教のファリサイ派によってキリストが処刑されるユダヤ編と重ねられている。そして、ベル神を信仰する神官達が引き連れたペルシャ軍がイシュタル神を信仰するバビロンの人々を虐殺するバビロン編は、カトリックがプロテスタントを虐殺する(サン・バルテルミの虐殺)中世フランス編と重ねられている。 また、各編はかつて抑圧されていた人々が、支配体制となり新たに別の人々を抑圧するという”不寛容”の連鎖によって繋がっている。ユダヤ編ではユダヤ教ファリサイ派がキリスト(カトリック)を抑圧し、中世フランス編ではカトリックがプロテスタントを抑圧する。そして現代アメリカ編ではアメリカ国家(プロテスタント)が市民を抑圧する。この映画では描かれないが、バビロンに対するからユダヤ教の支配に至るまでの間にも、ユダヤ戦争に至る連鎖が存在している。

最後に「不寛容が生む大砲と牢獄」「完全な愛が永遠の平和をもたらす」というメッセージが表示される。中世フランス編でカトリックがプロテスタントを虐殺するのは、過去にプロテスタントによる虐殺がありそのトラウマによるものとなっている。バビロン編はイシュタル神信仰とベル神信仰の、そして中世フランス編はカトリックとプロテスタントとの間の「不寛容が生む大砲」についての物語となっている。そして、体制によって死刑がもたらされるユダヤ編、現代アメリカ編は「不寛容が生む牢獄」についての物語となっている。 バビロン編では王に片想いする山娘が、現代アメリカ編では死刑にされる男と愛し合っているヒロインが、その”不寛容”による死を止めるチャンスを得る。そして、前者は失敗し、後者は成功する。それが「完全な愛が永遠の平和をもたらす」というメッセージと対応する。現代アメリカ編でのヒロインが純粋な女性として描かれていること、片想いではなく愛し合っている女性のみが成功することから、ここで説かれている完全な愛が割と教育的なものであるように感じられる。そして、場面転換で差し込まれるゆりかごを見つめる母親は”永遠の母”と呼ばれ、時代に関わらず存在している。それは、どの時代の誰もが同じ母親から生まれ、だからこそここで説かれる愛を実現できるというような意味に見える。全ての人に同じ愛の形を奨励するという点で、非常に一面的な結論となっている。

現代アメリカ編で、ヒロインと相手の男は、雇い主によるストライキの暴力的な鎮圧によって居場所を失い、男はスラムのボスによって無実の罪で牢獄に入れられ、その子供はプロテスタントの矯風会(イエスに対するユダヤ教ファリサイ派と重ねられる)によって連れ去られ、男は過去恋していた矯風会の女性によって無実の罪で死刑になる。二人はひたすらに”不寛容”を突きつけられる存在である。この映画の公開から4年後の、1920年にアメリカで禁酒法が成立する。それによる密造酒の横行、その高額な転売によってアル・カポネなどのギャングが力を持ち、矯風会は法律の後ろ盾を得たことによって過激化したらしい。だから、この映画は当時のアメリカ社会への警鐘として意図されていたのかもしれない。

感想

人物がカメラに急接近することでその人物にピントが合わなくなり、感覚的には近づいてより明確に見えるはずのその人物の顔が逆にぼやける。それによってその人物が何か異常な状態にあることを感じさせるという手法は、パウル・レニ『猫とカナリヤ』が発明してジャン・エプスタイン『アッシャー家の末裔』で引用したものだと思っていたが、この映画の青年の死刑を知るショットで既に使われていた。他にも、その後ドイツ表現主義映画やフランス印象主義映画などの、オルタナティブとされている映画で使われている手法がいくつも出てくる。ただ、これらはグリフィスが全て発明したというよりは、映画の発明以降、同時多発的に様々な人が発明して集合知的に蓄積されてきたと言う方が正しいらしい。グリフィスの功績はショット単位でそれら手法を使い分けつつ、モンタージュによって構成し直したところにあるって感じなんだろうか。また、助監督としてシュトロハイムとか複数のその後映画監督になる人も入っていたらしく、それもあるのかもしれない。

モンタージュによるサスペンス、感情的な没入感も凄まじく、エイゼンシュタインがこの映画に影響を受けたという話にすごく納得感がある。『戦艦ポチョムキン』はこの映画の方法のロジカルな発展であるだけでなく、複数話構成で最後に反体制が勝つこと、体制によって虐殺される市民という構図まで共通する。他にこの映画の影響下にあるだろう映画としてフリッツ・ラングの初期作がある。歴史を持たないアメリカが宗教によって自身を映画によって人類史に接続し再構築する。同じく歴史を持たず、さらに接続先を持たないソ連は国家の成立を映画によって歴史として構築する。そして、敗戦国となったドイツは映画によって過去の自身の歴史を今と接続し再構築する。物語を殆ど必要としないソヴィエト・モンタージュが生まれた背景にはソ連の識字率の低さがあるとどこかで読んだ記憶がある。映画が史実をあたかも現実であるように語り直すことができるとすれば、その機能がどのような形で要請されたか、国によってどのように最適化され、どのような手法がその最適化に付随して生まれたかを比較的に考えていく必要があるのかもしれない。

映画はミニチュアを実物のように見せる力を持っていると同時に、壮大なセットを小さく見せる力も持っているんだなと思った。セットが凄まじい規模なのはわかるのに、巨大なものを見ているという感覚が全くない。見上げるショットとかがあってもよさそうなのに、セットの巨大さを見せるのがクレーンカメラによる俯瞰的なショットしかないからなのかもしれない。フリッツ・ラングの初期作で出てくる巨大なセットはちゃんと巨大に感じられるので、その見せ方の工夫がフリッツ・ラングの一つの功績なのかもしれない。