濱口竜介『偶然と想像』における想像の位置 / なぜブレッソンか

濱口竜介監督による2021年作『偶然と想像』における想像の置かれている位置を、この映画が "言葉によるセックス" についての映画であるという点から考える。そして、それを元になぜこの監督がロベール・ブレッソンの方法を用いているのかについて考える。

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あらすじ

第一話「魔法(よりもっと不確か)」

撮影帰りのタクシーの中、モデルの芽衣子(古川琴音)は、仲の良いヘアメイクのつぐみ(玄理)から、彼女が最近会った気になる男性(中島歩)との惚気話を聞かされる。つぐみが先に下車したあと、ひとり車内に残った芽衣子が運転手に告げた行き先は──。

第二話「扉は開けたままで」

作家で教授の瀬川(渋川清彦)は、出席日数の足りないゼミ生・佐々木(甲斐翔真)の単位取得を認めず、佐々木の就職内定は取り消しに。逆恨みをした彼は、同級生の奈緒(森郁月)に色仕掛けの共謀をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。

第三話「もう一度」

高校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏子(占部房子)は、仙台駅のエスカレーターであや(河井青葉)とすれ違う。お互いを見返し、あわてて駆け寄る夏子とあや。20年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。

出典:https://guzen-sozo.incline.life/

想像 / 言葉によるセックス

他者に共有していない秘密の感情や欲求を精神的な性器とおき、そこが繋がることを"言葉によるセックス"と呼ぶという、非常に直接的な置き換えを中心に組み立てられた映画。そして、言葉によるセックスを精神的な結びつきとして、それに対するものとして肉体的な結びつきが置かれている。

まず、一話目は言葉によるセックスをできない人についての話となっている。肉体的な関係性のみを求める女性を主人公とする。肉体的な欲求を満たすことのできない男性と、肉体的な繋がりのみの関係性を避けている女性の二人が精神的な繋がりを得た、言葉によるセックスをしたというエピソードがその主人公に対して語られる。その男性は主人公の元交際相手であり、主人公はその男性に会いに行き、一方的に自身の感情や欲求を表現する。主人公は相手に対して無理矢理、一方的に言葉によるセックスを求めている形になる。そのため、男性は主人公を退ける。

二話目は互いの精神的な性器を愛撫し合う話となっている。この話での主人公は、肉体的な関係性にある男性に従わされている女性となっている。それに対して、小説家である先生がいて、その先生の小説の自身の欲求を書いた部分を主人公が読み上げる。そして、先生はそれを聞かされることで恍惚とした気持ちになる。その後、今度は先生がその主人公の共有していない感情を肯定する。しかし、どちらも一方的なものであるという点で一話の主人公の行動と変わらない。

そして、三話目で遂に主人公たちによって言葉によるセックスが行われる。ここで主人公はレズビアンの女性となっており、昔関係性のあった女性と間違えて、違う女性の家に上がる。その女性も主人公のことを別の人と間違えている。そして、二人が互いの間違えた相手を演じることで、主人公は「穴を開けたかった」と告白し、それに対して相手の女性が一歩踏み入ってくる。互いを"想像"することによって、言葉によるセックスが行われる。

一話目で話される言葉によるセックスは、二人が互いに同じような精神的な秘密を持っていたからこそ可能だったものであり、二話目では互いを想像しようとはしない。それによって、一方的な愛撫のみで終わる。その二つに対して、三話目は互いの精神的な秘密が共通しない。しかし、互いを想像して演じることで、その違いを超えて言葉によるセックスが行われる。言葉によるセックスという軸で見た場合、"想像すること"が異なるもの同士で精神的な繋がりを得ていく方法として現れてくる。

自身を抑え込むことと優先することの間の葛藤

さらに、精神的な性器として置かれる、他者に共有していない秘密の感情や欲求は、自分自身のままでいることと関わってくる。それを優先することは精神的なつながりによって他者と結びつこうとすることを意味する。そのため、表面的なつながりを広く持つこと、周囲と馴染むことが難しくなる。一方で、表面的なつながりを持つためにそれを押し込めることは自分自身の感情や欲求を押し込めることを意味する(人生が自分のものではなくなってしまう)。自身の秘密の感情や欲求を押し込めることと優先することの間、表面的な繋がりと精神的な繋がりの間での葛藤がある。その上で精神的な繋がりに対するものとして肉体的な繋がりが置かれており、肉体的な繋がりは表面的な繋がりと両立できる。

一話では精神的な繋がりが可能であることを知った主人公は、ラストの偶然(男が元交際者だったこと・カフェにその男が現れたこと)によって生まれた修羅場において、自身の欲求や感情を優先して関係性を破壊すること、それを押し込めて円満に進めることの二つを分岐的に経験する。そして、押し込めることを選ぶ。

肉体的な繋がりと精神的な繋がりの対比が強く現れているのが二話であり、主人公と肉体的な関係性にある男は精神的な繋がり、そして言葉を軽視している。そして、自身の欲求や感情を優先する主人公は周囲と馴染めていないのに対して、その男はそこに簡単に馴染んでいる。ここで、主人公はその男に軽視される側として、その男が優位になっている。

そこに、肉体的な繋がりを求めない存在として小説家の先生が現れ、主人公が自身の欲求や感情を優先することを肯定する。しかし、偶然(打ち間違えたこと・同じ名前の先生がいたこと)によってその関係性は破壊される。その後、その男は本を読まない編集者となっていて、校正となった主人公、小説家である先生両方に対して支配的な立場となっている。二話は、肉体的な繋がりに支配されてきた主人公が、精神的な繋がりを発見する。そしてその可能性が消え、また肉体的な繋がりに支配されるようになる。そして、その上下関係がラストで逆転する(したように見える)という話になっている。

また、二話ではまずその先生が男に対して優位な位置に立っている(単位取得を認めない)ため、肉体的な繋がりと精神的な繋がりの上下関係が二度逆転する話となっている。

一話では肉体的な繋がりよりもより良いものとして精神的な繋がりがあり、二話では逆に肉体的な繋がりが優位になっている。それに対して、三話では肉体的な繋がりが最初から除外されている。そして、三話では主人公が自身の欲求や感情を優先する人として、そして出会う相手の女性がそれを押し込める人としておかれている。その二人が偶然によって出会う。

自分の感情や欲求を優先するがゆえに馴染めない人、押し込めてしまったことを後悔する人の話として見れば、一話では主人公がその二つを分岐的に経験し、結果的に押し込める。二話では優先することを肯定されるが、結果的に外部から抑圧される。肯定されたことでそれに反抗できるようになったような感覚を残して終わる。そして、三話において、演じること、互いを"想像すること"で、優先する側と押し込める側が互いの側に歩み寄っていく。それによって、どちらにおいてもその二つの間の葛藤が遂に解決される。

なぜブレッソンか

『ドライブ・マイ・カー』において、濱口監督がロベール・ブレッソンの方法を元に役者に演技させていることが明示されたように思う(音の使い方もおそらくブレッソンの方法論を元にしている)。

ロベール・ブレッソンは『シネマトグラフ覚書』において、役者を人物の印象を模倣するもの、真実味を表現するもの、モデルを人物をそのまま表現するもの、真実を表現するものと置く。そして、以下の引用のようにその人間の内部、無意識下にあるものを含めて"人間の自然"として撮ることを目指した。それはそれぞれに異なる人間を理性による解釈のフィルターを伴わず、その唯一無二のものとしてそのまま映画として捉えることである。

「重要なのは彼らが私に見せるものではなく、彼らが私に隠しているもの、そして特に、自分の中にあるとは彼ら自身思ってもいないものである。」

出典:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』

それは、そのモデルとなる人が演じる対象を身体化し、自律的に動くようになることによって、監督がその対象の核を捉えるようにモンタージュすることによって実現する。以下の引用における一つ目の誕生は前者に、二つ目の誕生は後者に対応する。

二つの死と三つの誕生について

私の映画はまず最初に私の頭の中で生まれ、紙の上で死ぬ。それが蘇るのは、私の用いる生きた人物や現実のオブジェによってである。これら人物やオブジェはフィルムの上で殺されてしまうが、或る種の秩序の中に置かれスクリーンの上に映写されるとき、まるで水に浸した水中花のように生を取り戻す。

出典:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』

そして、それによって観客はその映画の中の人物を、カテゴライズや解釈がされていない状態、その人自体として発見する。その人をどう捉えるかは観客の解釈に任される。つまり、観客に想像させることができる。

それは、三話で二人が互いに演じることで互いを想像することと重ねられる。同時に、この方法で作られることで観客はこの映画に出てきた人々のことを想像することができる。それが、濱口監督がこの方法をとっている理由のように思う。

追記: 秘密に対する視線

他者に共有していない秘密の感情や欲求が性器として置かれていることは、演出にも対応している。

一話では、その秘密に関する会話が行われる中、タクシーの運転手の視線が映され、カメラはタクシーの運転手のミラー越しの視点に置かれる。それによって、観客が盗み見してるような形になる。そして、一話のクライマックスであるカフェでのシーンではカフェはガラス張りであり、カメラがガラス越しの視点におかれる。さらに、男との偶然の遭遇がそのガラス越しに行われることで、"見られている"という感覚が増す。秘密に関する会話が第三者に見られている、聞かれている可能性の場所で行われていることで、常に緊張感がある演出になっている。

その演出は二話では先生によって外部に見せるために強制的に開けられる研究室のドア、そのドアの向こうを歩いていく生徒たちとその声、三話では家への訪問者、帰ってくる子供に引き継がれる。さらに、研究室も家もほとんど無音であるため、外部の音がより際立って聞こえるという音による緊張感もある。

そして、三話の終盤で外に出ることで、遂にその外部からの視線を意識する必要がなくなる。同時に、車などの騒音がホワイトノイズのようになり、外部の音を意識させられなくなる。それによって、三話ラストの開放感がより増しているように感じる。

作品詳細

  • 監督 : 濱口竜介
  • タイトル : 偶然と想像
  • 製作 : 2021年 日本
  • 上映時間 : 121分

https://guzen-sozo.incline.life/

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