ジャック・リヴェット『修道女』別世界としての演劇 / 鑑賞者の位置


ジャック・リヴェット監督による1966年作『修道女』を『セリーヌとジュリーは舟でゆく』で描かれた劇中劇の演者の視点からの映画として読み解き、そして同監督の映画において別世界として現れる演劇の世界は何か、そこにおける鑑賞者の位置はどこにあるのかを考えていく。

あらすじ

1757年のパリ。家庭の経済事情で修道院に預けられた小貴族の三女シュザンヌは、修道女となる儀式を拒否。だが、自分が母の不義の子だったという秘密を知らされ、修道女になることを自ら認める。ある日、シュザンヌが慕っていた院長が亡くなり、規律に厳しいクリスティーヌが後任に就く。シュザンヌは新院長に反発し修道請願取り消しの訴訟を起こすが、悪魔憑きとみなされ監禁される。彼女は敗訴し、新たな修道院に移される。

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疎外され続ける主人公

主人公は母親の不倫によって生まれた子供であり、自身の家庭を含む社会から生まれながらに疎外された存在となっている。そして、主人公は請願の記憶がない、つまり自分の意志を持っていない状態の時に修道院に入れられる。主人公は常に居場所を持たないまま、修道院において強制的に役割を演じさせられる。

最初の修道院長は主人公に対して福祉的な役割を担うが、その院長が代わり、次の院長は主人公を自身の立場によってヒエラルキー的に支配しようとする。そして、悪魔として集団の外部へと追いやり疎外する。それに対して、その次の院長は主人公を性的に支配しようとする。主人公を自分に近づけ、その結果として主人公はまた集団から疎外される。

主人公は最後に修道院の外に逃げるが、社会に居場所を持たない主人公に帰る場所はない。そして、その外の社会でも、ヒエラルキー的な支配と性的な支配という修道院と同じ支配が反復される。それを通して、主人公は生きている限りこの自身に対する疎外的な社会構造から永遠に逃れられないことに気づき、自殺する。

演劇の檻の中に囚われた主人公

明確に演じていることがわかるような誇張的な演技、演出されていることが常に示されているような人工的な画面、寝てる時もつけられている濃い化粧など、修道院でのパートそれ自体が演劇であることが明示される。そして、檻の中にある舞台のショットから始まるように、主人公はその演劇を修道院という檻の中で強制的に演じさせられる存在となっている。

同じジャック・リヴェット監督による『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は映画自体が劇中劇を持っており、その劇中劇の世界の中に主人公であるセリーヌとジュリーが入っていく映画だったが、この映画はその劇の世界の中に囚われた人からの視点の映画である。そして、この映画での作り物のような演出は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の劇中劇とほとんど同じようなものとなっている。

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』と同じように、檻の中であり演劇の世界である修道院の外側に世界が存在することが明示される。演劇の外部とはその演劇の鑑賞者のいる場所のことであり、檻はその舞台と鑑賞席の間の境界となっている。告解のタイミングで鑑賞者である外部の男が檻越しに主人公を助け出そうとするが、この男は劇中劇の中に囚われた女の子を助け出そうとするセリーヌとジュリーと同じ存在となっている。

繰り返される別世界への遊離

主人公は最初の修道院から別の修道院へと逃避し、さらにその外、そしてさらにその外へと逃避していく。主人公が最初にいた修道院は現実世界から檻によって隔たれた演劇の世界であり、その世界は作り物のようなオーラを持ちつつも檻越しに現実世界との接点を持つ。そして、その現実世界は現実のもののように撮られている。それに対して、主人公が外へと逃避していくのに伴って、どんどんと映像が非現実的、夢想的なものへと変化していく。

主人公は自身の囚われた演劇の世界の外部の世界と逃げていくほど、よりその世界へと囚われていく。現実の世界だったのは最初の修道院の外部のみであり、次の修道院へと移動してしまったことでその外部がもはや現実の世界では無くなってしまう。あたかも、最初の修道院が現実世界から別に存在する演劇世界への入り口だったかのようになっている。

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』では最後に主人公たちがいた劇中劇の外部にある世界それ自体も現実とは違う世界であり、劇中劇の世界と主人公たちのいる劇中の世界が二重構造の別世界となっていたことがわかる。この映画でも、別世界である修道院と、同じく別世界であるその修道院の外部が二重構造として存在する。修道院内部での支配構造がその外部でも繰り返され、さらにその外部はより夢想的なものとして映される。そして、どちらの映画でも観客のいる世界が現実世界としておかれている。

体制とパラノイア

主人公が囚われていく演劇の世界は、主人公を疎外しつつも支配し、強制的に役割へと押し込める世界である。そして、主人公を疎外するのはその世界で既に構成された社会、人間関係である。その疎外的、支配的な構造は主人公にとって未知のもの、別世界のものとして映る。それに対して主人公はパラノイアへと陥っていく。

パリはわれらのもの』も体制による支配、そして自身を疎外する人間関係に対してパラノイア、陰謀論的な思考へと陥っていく映画であり、その陥っていく過程が別世界へと入っていく過程と一致していた。徒労に終わるものの『パリはわれらのもの』では客観的な視点からその別世界の秘密を知ろうとする試みが行われていた。それに対して、この映画は囚われてしまった主人公から主観的にその別世界を見る映画である。

別世界と鑑賞者の主観

パリはわれらのもの』では鑑賞者の主観は主人公と共にあり、主人公はその別世界に入るも、その別世界が離散することでまた現実世界へと戻される。それに対して、この映画では鑑賞者の主観は同じく主人公と共にあるが、主人公はその別世界に囚われたまま現実世界へと戻れない。そして、その別世界は演者によって演じられたものである。

つまり、『パリはわれらのもの』では主人公と鑑賞者がその別世界に対する観客であり、この映画では主人公と鑑賞者がその別世界での演者となっている。それが、おそらくこの映画で主人公を外部から助けようとする男が、観客の立場として明示的におかれている理由なんだろうと思う。

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』では劇中劇の登場人物たちが別世界の存在として演者で存在し、鑑賞者と主観を共にしていた主人公たちがその外部の別世界の存在として明示されることで、鑑賞者は観客として切り離される。鑑賞者が観客の立場におかれているため、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』では映画内に観客の立ち位置が存在しない。

終わりに

ジャック・リヴェットの映画には現実とは別の世界として演劇、劇中劇の世界が存在する。そして、その演劇に対する観客は現実世界に位置する。『セリーヌとジュリーは舟でゆく』そしてこの『修道女』では、その別世界は二重構造を持っており、演者の立場にある人物にとっては一度入り込むと抜け出せないものとなっている。しかし、観客の立場にある人物にとっては檻で閉ざされたように、覗き込むことしかできないものである(観客のように見えたセリーヌとジュリーは最終的に演者だったことが明かされる)。

そして、その未知の世界である演劇の世界の中心にあるものは、支配的な体制、そして既に確立された人間関係である。演者の立場にある人物はその世界で強制的に役を演じさせられ、その体制・人間関係に対してパラノイアに陥っていく。そして、観客である私たちはそれを知ろうとするが、完全に知ることはできない。

ジャック・リヴェット監督は、存在するかもわからない世界の裏にある秘密のようなものを、ひたすらフィールドワーク的、即興的な撮影を通して見つけようとしているように感じられる。その世界の裏は体制の裏であり、人間関係の裏でもあり、そもそもそのようなものが存在するという思考が陰謀論的でパラノイア的なものでもある。

作品詳細

  • 監督 : ジャック・リヴェット / Jacques Rivette
  • タイトル : 修道女 / The Nun (Suzanne Simonin, la Religieuse de Diderot)
  • 製作 : 1966年 フランス
  • 上映時間 : 131分

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