信仰 / 騎士道としての白 ー ジャン・グレミヨン『白い足』


ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1949年作『白い足(Pattes blanches)』について。

ブレッソンのキャリア初期と同じ時期にカール・TH・ドライヤーやこの監督の後期の映画があるということにすごく納得感がある。冒頭の空に左下にさがるように広がる暗雲、暗雲に向かうように左へと移動し舞台となる町に入る車のショットに始まり、画面に映る全てに暗い霊感のような何かがあり、その霊感が無意識に対して意識的に鳴らされる異音と共鳴している感覚。三人とも、戦争を背景に信仰のあり方を描いた監督のように思える。

ブルターニュ地方の田舎、丘に建つ古城、その下に広がる港町。その城に代々住んできた伯爵は誰もが女好きで、港町に住む人々は誰もが元を辿ればその伯爵達と愛人の間にできた子供である。伯爵が愛人を作りその子供と共に城の外へ追い出す、それが繰り返されてきた結果生まれたのがこの港町となっている。そして、その城は過去に一度焼かれている。それは、当時の伯爵がフランス王のブルターニュへの侵攻に反対したからである。おそらくそれ以前からの家訓として書かれているのは「汚れるよりも死を」であり、同じく古くからの騎士の甲冑が飾られている。いわば、焼かれる以前はこの城の伯爵は名誉を重んじ、騎士道に従っていた。そして、フランスの統治下になって以降、その城に住む伯爵は代々好色となっている。その末裔であるジュリアン伯爵は、昔は同じように女好きだったが、これまで続いてきたその血筋を絶やそうとするかのように、今は一人孤独に暮らしている。そして、焼かれる前の城にあった価値観に従おうとしている。しかし、彼はその血筋、そしてその選択故に港町の人々から蔑まれている。彼は常に白いゲートルを履いており、”白い足”という蔑称で呼ばれている。それでも彼がそれを履き続けるのは、白くあろうとするからだろう。

港町の人々は卸売業者であるジャックによって搾取されている。ジャックは愛人オデットを連れ込み、オデットの望む貴族のような生活をさせようとする。ジャックはその欲望に溢れた伯爵の気質を引き継ぐような存在となっている。

ジャックにはミミという召使いがいる。ミミは蔑まれ孤独であるジュリアンに恋をしている。ミミは純粋で汚れていない、ジュリアンのあろうとする白い存在としておかれている。オデットはジャックの愛人になる前は別の港町で召使いとして働いていた。オデットは、貴族のような生活を望む。欲しいものを手に入れるためには汚れることを厭わない存在となっている。ミミとオデットの対比は、鏡によって分たれた二人のショットによって表現される。

汚れることを厭わないオデットと生来白いミミが対比される。ジャックは支配的で、欲望的な気質を持つが、ジュリアンも血筋として同じ気質を持っている。ジュリアンはそれを拒絶し、人と関わらないことで白くあろうとする。しかし、オデットに誘惑されたジュリアンは、醜いミミよりも美しいオデットを選んでしまう。それによって、ジュリアンはジャックと同じ存在となる。そして、ジュリアンは白いゲートルを履くことをやめる。

ジュリアンの父親が愛人との間に作った子供であるモーリスは、その父親によって神学校に入れられたが、その後追い出されている。その後、城へと戻るが、汚れた血筋を拒絶したジュリアンによって追い出され、今は港町で暮らしている。その生まれによって、貧民である漁師達からも蔑まれており、仕事を得ることすらできない。モーリスは、そのためにジュリアンに復讐心を持つ。モーリスはその生まれによって、白くあることができない存在となっている。そして、モーリスはその汚れによって同じく人々から疎外されたオデットと恋に落ちる。

モーリスが神学校を追い出されたというエピソードによって、白くあることに宗教的な意味が重ねられる。汚れた、欲望的な人々は信仰を持たない人々としておかれる。ジュリアンの母親は欲望的な父親とは対比的にカトリックを信仰しており、ジュリアンは信仰を取り戻そうとするが、それを捨てオデットを選ぶ。

信仰を持たないジャック、持つことのできないモーリスとジュリアンは、共にオデットと関係を持つ。オデットはジャックとの結婚を選ぶ。結婚式でジュリアンはオデットを殺す。そして、その死体と共に、オデットの身につけていた白いベールを崖から海に落とす。それは、ジュリアンが白くあろうとすることを永遠に捨てたことを意味する。「汚れよりも死を」という家訓に従うように、モーリスは自殺する。そしてジュリアンもまた、城を燃やし死のうとする。しかし、そこにミミが現れる。ミミはかつてこの城にあった、白く豊かな生活を幻視する。そして、ジュリアンは家訓に従わずに自首することを選び、城をその白い存在であるミミに託す。ミミはそこでジュリアンを何十年でも待つと言う。それは、燃やされる前の過去の城に象徴されるものを取り戻すことがまだできるという希望のように映る。

ジュリアンは城に飾られた甲冑に対して両義的な心境を話す。昔の騎士は、信仰心を持ち白くあろうとすれば生きていくことができた、しかしそれは何も考えていないことと同じである。この映画は、過去にそのまま戻ることを肯定しない。

信仰を持つ人、持とうとする人、持とうとしない人、持つことのできない人を主軸に、信仰の失われた時代から、過去を両義的な心境で見つめる映画となっている。男三人の争いは『曳き船』における嵐と同様に、戦争の比喩にもなっている。『曳き船』は現代社会とその戦争を拒否しつつも嵐に惹かれてしまう男についての映画であり、最後、その男は絶望しながら神の加護を望む。この映画もまた、現代の生活を拒絶し信仰を望みつつも、それに抗えず信仰を失ってしまう男についての映画になっている。『曳き船』は絶望し暗闇にある男に対して光の可能性を与える。この映画でもまた、ジュリアンにやり直しができる可能性を与える。どちらも、希望があると言うのではなく、希望の存在する可能性を示唆するだけで終わる。