ジャン=リュック・ゴダール監督による2004年作『アワーミュージック』に現れる3つの切り返しに関して、主人公であるオルガは誰なのかを元に考えていく。
あらすじ
戦争の傷跡が深く刻まれた町サラエヴォに住む大学生のオルガ(ナード・デュー)は、講師として生徒を教える映画監督(ジャン=リュック・ゴダール)に自作の映像作品を渡そうとする。
オルガは誰なのか
wikipediaのサラエヴォ包囲のページには、サラエヴォ包囲の最初の犠牲者が反戦運動の行進をしていたスアダ・ディルベロヴィッチ(Suada Dilberović)とオルガ・スチッチ(Olga Sučić)の2人であること、殺害された橋がその2人の名前で命名されたことが書いてある。それによって、映画で現れるオルガはオルガ・スチッチの生まれ変わった姿であることになる。
劇中でのオルガの見知らぬ女性と横に並んだぼんやりとしたイメージはその時のもの、つまりオルガの前世での記憶である。そして、劇中で橋は過去の物語を未来に向けて保持するために修繕されると語られるが、その過去の物語にはその前世でのオルガも含まれる。そして、オルガは映画館で銃殺されるが、死んだ後にインサートされる映像は明らかに映画館でのものではない。それはおそらく実際のサラエヴォ包囲での映像なんだろうと思われる。
舞台設定
社会主義国家が民族主義を抑圧してきた結果としてのサラエヴォがあり、主人公であるオルガはユダヤ人となっている。そして、イスラエルとパレスチナ間の問題を背景に、許しあうこと、話し合うことを通してパレスチナ人と和解しようと活動をしている。その主人公は前述の通り前世でサラエヴォ包囲で殺されており、それをぼんやりと記憶している。
3つの切り返し / 主人公の移行
3部に分かれた映画であり、その2部では3つの切り返しが語られる。
カットの切り返し
1つ目の切り返しはカットの切り返しであり、ユダヤ人に対するパレスチナ人、アメリカに対するインディアン、サラエヴォなど、紛争における勝者と敗者の間の切り返しである。その勝敗は詩や物語が語られるかによって決まる。パレスチナ人の詩人によって語られる。しかし、同時にその敗者であるとされるインディアンなどにも、詩や物語として語られなかったものがあることが示される。人々は詩や物語が発された側を勝者として敗者に耳を傾けようとしない。そのため、敗者の持つ語られなかったものを拾い上げることがカットの切り返しを実現する。
行動する人間は自分の行動を適切な言葉で語れない。一方で、詩を読む、物語を語るものはその語られた事象の実態を知らないとして、行動する人と詩や物語を語る人が対置される。主人公は最初は行動する人間であるが、パレスチナ人の詩人へのインタビューを通して、そのカットの切り返しについて知る。それによって、カットの切り返しを実現する側、つまり詩や物語を語る側へと移行する。
イメージの切り返し
2つ目に現れるのはゴダールの講義によって語られるイメージの切り返しである。それは、物を見ること(目を開くこと、ドキュメンタリー)と、想像すること(目を閉じること、フィクション)の間の切り返しである。それは「努めて見る」ことと「努めて想像する」ことを通して実現される。
その上で、言葉・物語に対して映像が置かれている。劇中で現れる橋は、文字のような岩の集積であることが語られ、言葉・物語を象徴するものとなっている。その橋は過去の物語を未来に向けて保持するために修繕される。ただ、その橋に象徴される言葉・物語はイメージの切り返しを実現できない。それを実現できるのは映像である。
詩や物語へと移行していた主人公はゴダールの講義を聞くこと、橋の修繕を見ることによって映像へと移行する。
前と後ろの切り返し
そして3つ目の切り返しとして文字が発明される以前についてのエピソードを通して、前から映した人(カメラからはその人の後=過去が映る)、後ろから映した人(その人の前=未来が映る)の間の切り返しが導入される。
詩や物語を持たないとされていたインディアンたちが持つのはこの切り返しである。そして、主人公が前世と今世を繋ぐ存在であることが明かされることで、主人公もこの切り返しを実現できる存在だったことがわかる。それが、前世の記憶を思い出す主人公を前、後ろから切り返して映すカメラによって象徴される。
主人公の考えの変化
活動家である主人公はパレスチナ人の詩人との会話によって行動から詩や物語に移行する。サラエヴォやパレスチナ紛争の後の全てが破壊されてしまった今にとって、橋に表される言葉による勝者や敗者、歴史としての物語に意味がないことに気づく。そしてその橋の修繕を見ることとゴダールの講義によって詩や物語から映像に移行する。
そして、主人公はその破壊された後の何もない状態から何かを作り上げるため、未来(来世)のために死ぬことを決める。そして、ユダヤ人である主人公は映画館でパレスチナ人に対して自分と共に死ぬことを呼びかけ、殺される。ユダヤ人である主人公は許しあうこと、話し合うことを通してパレスチナ人と和解しようと活動してきた人であり、その理想は変わっていないが、それを実現するための方法は劇中での切り返しの移行を通して大きく変わっている。
冒頭の戦争のコラージュは主人公が作りゴダールに手渡したものであり、それはあらゆる時代における戦争のあらゆる立場にある人々の映像をコラージュしたものである。それはコラージュであることによって物語を無効化する、つまりカットの切り返しを無効化したものであり、それと同時にイメージ、そして前と後ろの切り返しを実現したものに感じられる。
そして、天国にいる主人公が努めて見る、努めて想像することを表すように、目を開き閉じることを繰り返す姿でこの映画は終わる。その主人公が見ているものは来世でありそれ以前の前世、前と後ろであるような感覚がある。ここでも冒頭のコラージュと同じく、イメージ、そして前と後ろの切り返しが象徴される。
誰の視点からの映画か
劇中では主人公がデジカメで撮っているシーンが挟まれる一方、ゴダールはデジタルで撮ることを否定する。そして、この映画はデジタルで撮られたものである。それによって、この映画自体が主人公によってデジカメで撮られたもののような形になっている。この映画が主人公の視点であることは、切迫した主人公に対して、故郷に帰り他人事のように主人公の死を聞くゴダールという対比によっても強調される。そのため、この映画はゴダールがサラエヴォ包囲で亡くなったオルガの視点になって撮った映画であるように感じられる。
サラエヴォ包囲で亡くなったオルガ、そしてこの映画の主人公であるオルガは、どちらも物語としての勝者の側にいる人間であり、それがカットの切り返しとして敗者の側の声を聞こうとする。そして、イメージの切り返しという視点を得て、そして前世の記憶、来世への想像力によって前と後ろの切り返しを実現するようになる映画のように感じられる。
前と後ろの切り返しは何か
カットの切り返しは物語られた勝者と物語られなかった敗者の間の切り返しであり、イメージの切り返しは見ることと想像することの間の切り返しであることが明言される一方で、前と後ろの切り返しは映像と文脈によってのみ提示され、具体的な内容が語られない。
それは過去と未来の間の切り返し、過去 / 未来を想像する / 見ることなのかもしれないし、過去や未来のような捉え方とはまた違う時間感覚を指しているのかもしれない。それはこの映画を見た人が考えるべき余白なんだろうと思う。
見る / 想像すること
紛争に対してどういう視点を持つべきかを瞑想したような映画であり、それによってたどり着いたのが1部のコラージュ的な映像であり、3部のラストの主人公のショットなんだろうと感じる。
物語ることは勝者と敗者を決めることに繋がり、それは和解には繋がらない。その物語ることを否定しつつも「努めて見る」ことと「努めて想像する」ことを両立させることを提示する。しかし、見る / 想像する対象は言葉によっては語られず、ラストに主人公が見ている / 想像しているものも映されないまま終わる。
2部を通して主人公が作り上げたものが1部の映像である以上、その映像の中に主人公がたどり着いた視点があるんだろうと思う。そして、その視点はオルガになりきることによってゴダールがたどり着いた視点でもある。
作品詳細
- 監督 : Jean-Luc Godard / ジャン=リュック・ゴダール
- タイトル : アワーミュージック / Notre Musique
- 製作 : 2004年 フランス
- 上映時間 : 80分