ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』アンナ・カリーナ時代の終わり

ジャン=リュック・ゴダール監督による1965年作『気狂いピエロ』について。ゴダールがアンナ・カリーナと共に映画を撮っていた時代、そしてその終わりを描いた映画として。

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あらすじ

パリで金持ちの妻との生活に辟易している男。偶然ベビーシッターにやって来たかつての恋人。彼女を家に送り一夜を共にするも、翌朝男の死体が転がっていた。事情の分からぬまま、彼女の兄がいるという南仏に向かう。ところがある日彼女が姿を消してしまう…。

気狂いピエロ 2Kレストア版 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

映画によって結びつく男女

アメリカ的なもの、広告に溢れた消費社会で男は統合的に物事を捉えることができなくなっている(目は見えていて耳は聴こえているのに全てがバラバラ)。求めるのは人生であり物語である。そこに同じように写真や事実では捉えることのできない人々の物語を求める女が現れる。

男はそれまでの生活を捨てて女と共に逃避行する。二人はアメリカをからかったり喜ばせたり、金やアメリカ車を奪い生活する。

しかし男の行動原理は思想であり、女にとっては感情である。男にとっての生きることは孤立したコミュニティに定住し文章を書く、思考することであり、女にとって生きることは感情に従うこと、移動すること、歌うことである。海辺に定住することによって女はやることがなくなってしまう。

定住生活からまた移動し出すこと、男は移動しながら思考することでその違いが一度緩和される。そして、二人が求めていた人生、物語が映画であることが、ネオンで表示されていた人生という文字がシネマに変わることで示される。

前面化するアメリカ

そこで女の背景にあった戦争、アメリカが前面化する。女が関わっていた密輸業がアルジェリア戦争とベトナム戦争の間で武器を受け渡すものであったこと、女の背後にアメリカがあることが示唆される。それによって二人は一度離される。

女の運命線の短さについての歌は、その背景の重さを表している、もしくは短いからこそ移動したいなど、その後の女の行動を示唆したものになっているが、その内容を男はまともに聞いていない。それに対して、女は男の自分はピエロではなくフェルナンドなんだという訴えを無視し続ける。

再度再開した時には女はハリウッド風の女になっており、アメリカの海兵帽を被っている。ここでアメリカ的なものから逃避行していたはずの男との不一致が生まれる。女の兄がアメリカを象徴するように置かれていて、女はその兄について行き男の元を去る。

アンナ・カリーナとの関係性についての映画

アンナカリーナとの離婚後の作品であり、アンナカリーナがハリウッドに憧れていたのに対して、ゴダールが消費社会などアメリカ的なものと対立しており、その後共産主義に移行していくことを考えれば、ほとんどアンナカリーナと出会ってから別れるまでの話をそのまま映画にしたようなものなんだと思う。

元々ゴダールはアメリカ映画を取り込んで自身のスタイルを作り上げてきた監督でもあり、それがアメリカ車に憧れ、奪い、それを捨てて自身のコミュニティに定住するという流れに対応しているんだと思う。実際どうなのかわからないけど、アメリカ人を喜ばせてお金を奪って逃げるシーンは自身の映画資金の調達方法とその使い方を表してるのかなと思う。

この数年後にアンナカリーナ主演で撮った映画の名前が『メイド・イン・アメリカ』だということを考えるとこの二作品は並べて見るべきなのかもしれない。

ラストシーンについて

ラストシーンで、爆破によってそれまでの作り物のような映像から一気に超自然的で俯瞰的なショットとセリフによる引用(「何が見つかった? - 永遠が」「太陽と去った - 海が」)に飛躍する。

そしてこのラストシーンによって男、そしてゴダールのこの映画で描かれた人生の一部の過程に対して、刹那的で永遠的な肯定感が付与される感覚が残る。これが男もしくはゴダールの求めていた全てが統合される感覚なのかもしれない。

人生における一つの時代の終わりを描いた映画に与えられるラストショットとしてこれ以上のものはないように思う。

感想 / レビュー / その他

『勝手に逃げろ』『右側に気をつけろ』などゴダールは定期的に自身のエピソード語り的な内容の映画を撮っていて、これもその一つのように思う。個人的にそこに乗れずあまり楽しめなかったけど、ラストシーンで一気に好きな映画になった。ラストの問答みたいなセリフはこれからもたまにその感傷含めて思い出すと思う。ただ、でもこの人の映画は自身の思想と社会について内省もしくは攻撃している時のものが好きだなと思う。

『勝手にしやがれ』と並べられる作品だと思うけど、そこにあった具体的な誰かの話だからこそ普遍性を持つような感覚はこの映画ではなくなっているように感じる。ゴダールっていう記名性が強すぎてただただゴダールの話だなって感覚がある。それでも名作の位置にあるのは、表現方法によってなのか、それとも当時の人々は同じようにベルモンドに自分もしくは誰かを見ていたのか。

あと何かラストシーン以外はショットやその繋ぎが鈍重でリズム感がない感覚があった。さらにトリッキーな演出はあるけど力のあるショットやショット内の動きによる良さみたいなものもない気がした。だからこそラストシーンがあそこまで映えて見えるのかもしれない。

また、ラストシーンのあの超自然的で霊感がこもったようなショットはゴダールが80年代以降に瞑想的な感覚と共にものにしていき、90年代に極まりきるもののように思う。

作品詳細

  • 監督 : Jean-Luc Godard / ジャン=リュック・ゴダール
  • タイトル : 気狂いピエロ / Pierrot le Fou
  • 製作 : 1965年 フランス
  • 上映時間 : 110分