蜃気楼としての過去、砂漠としての未来 / 大いなる存在の介入 ー ジャン・ルノワール『ランジュ氏の犯罪』


ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1936年作『ランジュ氏の犯罪(Le crime de Monsieur Lange)』について。

出版業界の大物バタラは詐欺のような方法で人々から金を巻き上げている。バタラはフリッツ・ラングにとってのドクトル・マブゼのような、悪を象徴する存在となっている。同時に、バタラは魅力的な存在としても描かれていて、人々から女性をも奪っていく。そして、自分に惚れた女性を自身の利益のための道具として利用する。

舞台はアパートであり、そこにはランジュの務める出版社があり、ヴァレンティーナが洗濯業を営んでいる。殆どのシーンがアパート内部であり、基本的に空間が狭い。映像は密室的でカメラと人物、人物同士の距離が近い。さらに、カメラの焦点が何か独特な位置にあり、光の当て方も独特。それによって、画面がくぐもっていて奥行きがなく輪郭がぼやけたような画面となっている。それによって、アパートの人々が何か狭い空間におかれていて、自由に動けないような印象を持つ。そして、画面が基本的に平坦だからこそ、画面の奥に向かう運動や、カメラの移動が対比的に解放感を持つ。そして、それらショットをもたらすのはバタラだけである。アパートにおいて特権的な存在であるバタラのみがその空間を自由に行き来できる。

アパート内でバタラ以外の人物は行動を制限されている。そして、バタラがアパート内の関係性を崩していくため、人物同士の交流も制限されている。象徴的なのは曲芸師の若者であり、交通事故により足を骨折し部屋から動くことができなくなる。そして、元恋人が訪れようとしても、その親によって阻まれる。それはバタラが仕組んだものである。そして、その曲芸師の窓はバタラの出した出版社の看板によって閉ざされている。閉鎖的な空間で、曲芸師が会うことのできるのはランジュのみである。

ランジュとヴァレンティーナが初めて関係を持つシーンにおいて、まず挿入歌のようにヴァレンティーナの歌声だけが聞こえ、舞台がセットとわかるように映された後に、二人が映される。一瞬、二人が舞台上で劇を演じているように錯覚する。この飛躍的なショットがこの映画の転換点となっている。そして、夜逃げしたバタラの乗った電車は奇跡的に事故を起こし、アパートにバタラが死んだというニュースが広がる。これはあたかも、この映画の製作者が物語に介入し、バタラを退場させ、バタラによって抑圧されてきた人々を解放したように感じさせる。ランジュとヴァレンティーナが舞台で演じているように見え、セットがセットだとわかってしまうショットは、この映画が誰かの製作物であることを示す。メタ的な視点を事前に導入することで、バタラの退場が製作者の物語への介入によるものであることが明示される。

アパートからバタラが消えることで、人々は空間を自由に行き来できるようになる。窓に貼られた看板が取り除かれ、窓が外の空間と繋がる。このショットは、この映画において際立って多幸感をもつものとなっている。曲芸師と、これまで交流してこなかった人々が窓を通して交流する。そして曲芸師の足も回復し、曲芸師が外を自転車で走るという解放的なショットが象徴的に挟まれる。そして、アパートの人々が空間を自由に行き来できるようになったことは、彼らがバタラのようになったという意味でもある。だからこそ、これら人々は何か軽薄で、その幸福は一時的なもののように感じられる。

バタラの独裁から共同組合制に変えることで会社は立ち直る。セットで写真撮影を指揮するランジュの元に、小説の映画化の話が持ち込まれる。そして、ランジュが映画化のアイデアを思いつき会社に戻ると、奇跡のように、死んだはずのバタラが神父の格好で現れている。再び、セットの明示、映画への言及というメタ的な視点の導入の後に、製作者による物語への介入が行われる。

バタラは神父と入れ替わることで自身の死を偽装していたことが明らかになる。ランジュがバタラを発見するシーンの演出が凄まじく、ランジュが社長室に入ると、白い部屋の背景とは相容れない、全身が黒い人物が当たり前のように存在している。それを見つめるランジュの背中は微動だにせず、黒く塗りつぶされたような異様な模様と化している。そして、今後バタラ以外の人物は空間を自由に動くことができないかのように、バタラは周囲を黒く塗りつぶしながら超越的な存在として画面の奥へと歩いていく。そして、ランジュはその場から動けない。バタラは、ランジュ達の民主主義的な会社運営を否定する。ランジュは独裁者であるバタラを殺害し、ヴァレンティーナと共に逃亡する。

冒頭、国境のホテルに辿り着いたランジュは、国境の先に自由があると言う。しかし、その先にあったのは砂漠だった。その砂漠は、劇中の人に溢れたアパートとの対比となる。この映画は悪の象徴たる人物の存在を消すことで、過去にあった生き生きとした人々の生活を現出させる。しかし、その生活は過去のものでありファンタジーとなってしまっている。そして、それは過ぎ去ることが約束されたものでもある。ランジュ達は蜃気楼のように現出した過去を後にして砂漠の奥へと歩き始める。アパートにおいて、奥に向かう運動は自由を得た人々の特権であり、狭く入り組んだアパートの対比によって、生き生きとした解放感を持って撮られていた。それに対して砂漠は広大で、その奥へと向かうランジュ達の足取りは遅く、一切の解放感を持たず撮られている。

そして、この映画は中盤のメタ的な視点の導入によって、バタラすら操る人物の存在を明示する。それは運命のような大きな存在であり、バタラを殺したとしてもその先の未来が変わることがないと言っているかのように見える。死につつあるバタラの元には、物語的に仕組まれた偶然の結果によって神父が訪れない。バタラが神によって見捨てられたように見えるシーンだが、ここで神父を寄越さないのは神ではなく、別の大きな存在である。あたかも、バタラは用済みとして切り捨てられただけのように感じられる。ランジュは小説から始まり、民主的な方法によって、セットでの写真撮影を経由し映画製作へと辿り着く。いわば、その存在と同じように上位の存在、神のような存在へとなり上がっていく。ランジュの変遷は、印刷技術、写真、映画という、芸術に関わるテクノロジーの発展と呼応する。あたかも、神に近づこうとした人間を蹴落とすように、その大きな存在は物語への介入によって、映画へと乗り出したランジュを砂漠へ落とす。

最初に現れるバタラは享楽的で、独裁者でありつつも悪政を強いる王のように、その支配は持続性を持たない。結果、バタラは自ら破滅し逃亡する。その後、出版社は共同組合という民主的な組織として立ち直る。そこに再び現れたバタラは、宗教的、かつ黒いオーラを帯び、以前より暴力的で狡猾になったように見える。王政から民主主義、全体主義という統治の変化の流れを反映している。そして、この映画においてこれら変化をもたらすのは人々ではなく、その上位にある神のような存在である。西洋社会における歴史は人々が自由を自ら獲得したという発展の歴史としてではなく、人の関わりに関係なく、ただ振れ幅を増やしながら行き来するもののように捉えられている。

人の行く先は人に変えることのできるものではないという認識がまずある。それにも関わらず、例えば個人主義、自由、テクノロジー、神のような存在に近づこうとした結果として、もしくは世界・運命を変形させる力を持とうとした結果として、戦争、そしてその先も続く砂漠がもらたされたかのような、黙示録的な感覚をこの映画は持っている。過去の一瞬の幸福な時代と同時に、この先にある暗い未来をただ幻視させる。