精神性を抜かれたフロンティアスピリット ー ジャン・ルノワール『南部の人』


ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1945年作『南部の人(The Southerner)』について。

精神性を抜かれたフロンティアスピリット

「こいつら嫌いだわー!」って思いながら嫌々撮ってる感が映像から溢れ出してるように感じたけど、どうなんだろう。映画全体が嫌味というか、表面的なメッセージとは真逆のことを言おうとしているように見える。映像、プロット共に表面だけ空虚になぞったフォード映画って感じ。精神性を抜かれたカウボーイ、フロンティアスピリット。

生き生きと撮られる動物達に対して、オブジェのように静的に撮られる俳優達。そのセリフも作り物のように棒読み。物語の展開も強引で、いくつか放たれるコマーシャル的なメッセージを言わせるためだけに物語が存在しているように見える。クライマックスで流される主人公の友人、それを助ける主人公のシーンですら非常に淡白に撮られている。そして、主人公達が棒読みで前向きなセリフを言う時は空が背景になり、その空はのっぺりしたグレーである。俳優達は映画の中で生きた人間とならないまま、前向きな人物を演じさせられ、前向きなセリフを言わされる。

ただし、バーでの暴力や隣人による嫌がらせや、隣人との乱闘など、暴力的になったり嫌な部分が出ているときだけ、人間が生きて撮られている。死んだような顔、棒読みでフロンティアスピリットを体現した台詞を言う主人公と、生き生きと嫌な台詞を吐く隣人父。体全体を使って畑を荒らす隣人息子と、何かぎこちなくそれを追い払う主人公。結婚式のシーンで、資本主義的で欲望的に振る舞う主人公の友人はガチ喧嘩して負けてベッドに勢いよく倒れ込む。それに対して、主人公は喧嘩に負けたフリをしてわざと倒れ込む。

物的、非自然的な存在である主人公家族は移り住んだ土地への異和のように映される。移り住んだ日の、家に入ることを拒む祖母とその背景に映る空は、合成のように見えるほど相容れないものとして映される。クライマックスの川の氾濫においてその土地は、元からあった家を除いて、家族が持ち込んだ全てを流し去る。家族が持ち込んだ牛や鶏、家具が川の中からそこに存在すべきではないもののように、圧倒的な違和感、シュールさで映される。そして、氾濫した川を渡る主人公よりも放置された牛の方へ感情移入しているような感覚もある。何か、登場人物の誰かではなく、土地、その自然全体の側に立って撮っているような感覚がある。そして、人物が感情的になるときに、その人は自然の一部となる。

そもそも、この映画は、男が南部に住む家族の話を撮影者に向けて一方的に話しかけているという設定になっており、それも、この主人公家族を撮るカメラが気乗りしなさそうである理由づけになっているように感じられる。

開拓者である主人公家族に対して、先住民である隣人達はインディアンの暗喩であると考えることもできる。主人公家族はその土地、その自然や先住民から拒絶される。彼らはそれを乗り越え、土地に根づこうとするとする。しかし、この映画において人間は取り繕わず感情を発する時に、生き生きとし出し自然と調和する。ラスト、家族のそれぞれがそこに住み続けることを宣言するとき、彼らは物化しておりその土地への違和として存在している。

ルノワールがアメリカ的価値観の人を撮れないで終わる話かもしれないけど、撮れないわけがないし、意図して皮肉的に撮った、もしくはシンプルに気分が乗らないまま撮ったっていう方が可能性が高そう。