運命への報われない抗い ー マックス・オフュルス『永遠のガビー』


マックス・オフュルス(Max Ophüls)による1934年作『永遠のガビー(Everybody's Woman)』について。

『魅せられて』『忘れじの面影』に共通する、どこにもいけない人物とどこにでもいける人物という対比がこの映画にも存在しており、今回は父親によって家に閉じ込められていた主人公が、最終的には歌手、映画スターとしてその虚像が人々からアクセスできる存在(街中に顔写真が貼られ、虚像としてのバックストーリーが大きく売り出され、「映画館に行けば会える」存在)へと変化していく。しかし、実像としてのガビーは虚像の裏に押し込められ、どこにも行くことができない。

冒頭、スターとなったガビーのマネージャーは、出てこないガビーを呼び出すために、撮影現場からホテルに向かい、いくつものドアを開け奥の部屋へと入っていく。最も奥にある部屋は浴室で、そこでガビーが自殺していることを見つける。撮影現場が虚像としてのガビーが存在する場所であれば、実像としてのガビーはそこからいくつもの扉を開けた最も奥、そして最もプライベートな空間である浴室に存在している。そして、倒れたガビーを見つけたマネージャーは、またそのいくつもの扉を抜けて外へと出て行く。その後、ガビーの倒れた浴室に人が訪れるショットが挟まれることなく、病室で治療を受けるガビーのシーンに映る。マネージャー達は虚像としてのガビーの対処に対して話し合うが、何枚もの扉で守られた奥に存在する実像としてのガビーは倒れたままであり、そこに誰も触れようとしないかのように見える。自殺後も、ガビーの実像の近くには誰もいないことが示される。病室で麻酔器(頭部を完全にカバーするようなものとなっている)が降りてくることによって、実像としての記憶の存在するガビーの頭部が外部空間から暗闇の中へと切断される。麻酔器の暗闇の中、ガビーのこれまでの人生が走馬灯として回想される。この回想の中に生きる実像としてのガビーは、ガビーの中にのみ存在しており、他の人々からは閉ざされている。あらゆる場所にばら撒かれた虚像としてのイメージに対して、その実像は誰にも共有されない。

舞台はカトリック社会である。幼い頃、聖歌の授業でのガビーは、一人だけ下手で浮いている。そして、その先生はガビーに恋し妻子を捨てるというカトリックに反した行動をとる。ガビーは偶像としての魅力を生まれ持ち、信仰から拒絶された存在としておかれる。その出来事によって、ガビーは父親によって家に閉じ込められ、厳格な生活を送ることになる。

ガビーに恋し、そしてガビーが恋するのは別の家庭の父(レオナルド)と息子(ロベルト)である。ロベルトは、柵で仕切られた家の外からガビーを恋慕う。そして、ガビーをパーティに招待することで家の外へと連れ出す。その後、ロベルトが車のライトを動かすことで、ガビーにスポットライトを当てるシーンが置かれる。ロベルトは、いわば偶像・虚像としてのガビーに恋する存在となっている。それに対して、その父であるレオナルドは実像としてのガビーと恋をする。二人を結びつけるのはオペラ鑑賞となっている。しかし、レオナルドには病気の妻がいるため、その恋は禁じられたものとなる。二人の関係性を知ったことでレオナルドの妻は死に、その時にラジオから流れていたオペラ音楽はガビーを幻聴として追い続けるものとなる。偶像と信仰の対置に対応し、ガビーがその後歌うようになるポピュラー音楽とオペラ音楽が対置される。ガビーはオペラ音楽から追い立てたれ、その逃避先としてポピュラー音楽が方向づけられる。二人の関係性において、それまでの幸福な記憶がトラウマへと反転する。それによって、ガビーは帰る先を無くす。自身の家にも、その家庭の家にもいることができなくなる。

ガビーは故郷を捨てポピュラー歌手としてデビューする。そこで、マネージャーに虚像としての嘘のストーリーを作られる。虚像としてのガビーが生まれ、実像としてのガビーを知るのはレオナルドだけとなる。一方で父は、ガビーと住む新しい家を用意するために会社の金を使ったために投獄される。牢獄から出た時、既にガビーはスターとなっており、レオナルドは虚像としてのガビーが広がる様を目の当たりにする。そして、実像としてのガビーと再会できないまま、その風景に圧倒され向かってくる車に気づかず撥ねられ死んでしまう。これで、実像としてのガビーを知り、愛した人物はこの世に存在しなくなる。そして、ガビーはその息子であるロベルトと再会するが、ロベルトは元から虚像としてのガビーに恋していた人物である。「映画の中でいつでも会える」というセリフがそれを象徴する。虚像としてのガビーは「みんなの恋人」というキャッチフレーズで売り出されるが、実像としてのガビーは誰かの恋人になることを望んでいる。そして、実像としての自分を愛している人が存在しなくなったことにより、ガビーは自殺する。ガビーは、虚像としての姿しか知らない他の人々から見れば愛されているように見え、だからこそその死は不可解なものに映る。

ある女性の人生へと入っていく映画であるという点で『忘れじの面影』と共通する。そして、囚われた女性という主題も他の作品と共通する。パゾリーニが『愛の集会』でカトリック社会であるイタリアでは姦淫を恐れるがあまり、男性(結婚前は父親、結婚後は夫)が女性を家に縛り付けていると言っていた。マックス・オフュルスはドイツ出身の監督でありナチスの台頭と共に亡命し、フランスやイタリアで映画を撮った後、アメリカで撮るようになったらしい。この映画はイタリアで製作されたものであり、この映画でその主題を得たということなのかもしれない。それか、イタリアだけでなくカトリック社会に共通することだったのか。

ガビーの人生は偶然によって大きく変更される。そして、彼女は宗教的な家庭に生まれつつも、生まれつき偶像としての人生を定められている。ガビーの人生は、運命として定められたもののように映る。この、予め決定された人生という点でもパゾリーニ、特にその初期作と共通する。これはジャック・ドゥミとも共通する点でもある。フランスもイタリアもカトリック社会であるため、これもまた、カトリック社会がその生まれ、階級や性によって人生を決定させてしまう構造を持っているということなのかもしれない。

ガビーの運命を決定づけるのは、メタ的に考えればその製作者である。ガビーは、その生まれもった魅力によって引き起こされたレオナルド、その妻との悲劇に遭遇した結果、ラジオを破壊する。このラジオの音楽は、レオナルドの妻が流したものではあるが、クライマックスの展開の密度によって、それが劇中のラジオから流れている音であることは意識されなくなる。クライマックスの演出のための音楽であり、いわば製作者によって流されたものとして認知される。ガビーはレオナルドの妻の死体を見つけ、謎の方向へ走り出す、その向かう先がラジオだったことがわかる、そしてラジオを破壊するという行動の衝撃と共に、それまで流れ続けていた音楽がそういえばこのラジオからだったことがわかるという衝撃をもたらす。この一連のシーンは、ラジオの破壊をピークとして演出され、サスペンスが組まれている。それは、ガビーがラジオへと向かって走っていくことが、ガビーが運命を決定づける製作者の存在を感知したことを意味し、その製作者が演出のために用いた音楽装置の破壊が、製作者、その運命への報われない抗いを意味するからだろう。