MCUは今何を物語ろうとしているのか / メタ構造による物語の否定

MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品について、今そもそも何をしているのか、これから何するつもりなのか、特になぜここまでメタ構造にこだわっているのかを考えた文章になります。

流れとしては、まずインフィニティ・サーガが大きな物語を描くものであり、フェーズ4以降ではその物語の脱中心化、その物語で透明化されてきた人々を描いていること。それに加えて、メタ構造とそれに伴う外部からの視点を一気に導入し始めていること。それらによって、その物語自体を否定していること。そして、次にどのような物語を語ろうとしているのか、そもそもそれは何故なのかについて書いています。

コミックは読んでいないので読んでいる人には当たり前の内容が含まれているかもしれません。また、『ムーンナイト』までのドラマ・映画含めて複数作品に触れているため、ネタバレを気にする方は読まない方が良いかもしれません

そもそも細部を忘れてしまってる作品や覚え違いをしている作品もあるかもしれないですし、ここに書いている内容は僕がそういう映画として見たというものなので、これが正しい見方だというものでもないです。

大きな物語としてのインフィニティ・サーガ

フェーズ3まで(インフィニティ・サーガ)のMCUは大きく見れば様々な価値観、バックグラウンドを持つ人々がサノスという共通の敵に対して団結していく物語だった。 そして、中心に据えられたテーマは分断であり、その中でも資本家であるアイアンマンとイタリア系移民を出自とするキャプテン・アメリカの二人の間の分断が中心となっていた。 その分断を引き起こすものの中でも、社会がどうあるべきかに関する価値観の違いが中心となっていた。それは、キャプテンアメリカシリーズにおいて、シールド(ヒドラ)のドローン計画、ヴィジョン(ウルトロン)の開発、ソコヴィア条約、そしてアイアンマンとの対立によって何度も語られ、それはブラックパンサーでより深められ、『マイティ・ソー / ラグナロク』でも中心となるテーマとなっていた。

このように、フェーズ3までのMCUで中心となるテーマは社会であり、異なる価値観・背景の人々がいかに共生するか、そしてそのような人々がいかに共通の課題に立ち向かえるかが問題とされていたように思う。だからこそ、全員がアベンジャーズとして集合する、アッセンブルすることがクライマックスとなる。

物語からの脱却

そして、そのような大きな物語としてのフェーズ3までが終わり、フェーズ4以降はその物語の中で描き切れなかったもしくはその物語から透明化してきたことを描くことで、その物語からの脱却を目指しているように感じられる。

物語としてのアメリカの非中心化

フェーズ3まではアイアンマンとキャプテン・アメリカの対立を中心とした物語であった。そのため、フェーズ3までで描かれてきた物語はアメリカを中心とする物語であり、舞台もほとんどがアメリカである。アメリカ外部の社会を描いたように見える『ブラック・パンサー』も、中心になるのはアメリカにおける黒人問題である。

それに対して、フェーズ4ではアメリカ以外を中心とした作品が増え、さらに作品を通して中心となる物語が存在しない。例えば、『シャン・チー / テン・リングスの伝説』は『ブラック・パンサー』とは逆に、アメリカを舞台にしつつも問題の中心はアジア社会、その中でも家父長制となっている。

物語の外部を描く

フェーズ3までがいわば主役として選ばれた人々による物語であったのに対して、フェーズ4ではそこでは透明化されてきた、省略により物語の外部へと弾かれてきた人々についての物語が中心を占めている

『アベンジャーズ / エンドゲーム』ではアイアンマンが指パッチンによって消えた人々が戻ってくることがその物語のクライマックスとしてハッピーエンドのように描かれていた。しかし、それ以降の作品においてその指パッチンにより人々が消え、さらにもう一回戻ってきたことが社会問題として背景におかれるようになる。

フェーズ3まででもヒーロー活動による人々の犠牲は描かれていたが、それはあくまでもヒーロー側からの視点によるもので、その市民側の主観は描かれてこなかった。それに対して、フェーズ4以降はその物語においてあえて消されていた犠牲になった人々が登場人物として、個々の物語を持って現れるようになる。そして、ヒーローではない人々の側から見たその物語が語られるようになる。

その描かれてこなかった被害はヒーロー側にも存在することが『ワンダヴィジョン』でのワンダ、『ブラック・ウィドウ』でのエレーナ、『ファルコン&ウィンターソルジャー』でのファルコンなどを通して描かれる。市民が登場人物としてそれぞれの物語を持って描かれるのに対応して、ヒーロー達の市民としての姿も描かれるようになる。『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』でファルコンやウィンター・ソルジャーは社会に存在する問題とヒーローとしてというよりも、一個人として関わっていく。(『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』における社会問題の描き方がそれまでの映画のアナロジー的な描き方とは違い直接的で具体的なのはそれによるもののように思う)

物語の否定

そして、フェーズ3のラストとなる『スパイダーマン / ファー・フロム・ホーム』からフェーズ4の『ワンダヴィジョン』『ホワット・イフ…?』『エターナルズ』『ロキ』『ムーンナイト』を通して導入されるのがメタ構造であり、鑑賞者という外部からの視点である。

メタ構造・外部からの視点の導入

『スパイダーマン / ファー・フロム・ホーム』では敵と戦うヒーローという虚像、つまりヒーロー映画を製作する人々が現れる。 『ワンダヴィジョン』ではワンダを製作者として、脚本を決め、現実世界の人々を役者として演じさせ作られたドラマがドラマの中で放映される。そして、さらにドラマ内でその世界の外部にいる人々が鑑賞者となり、実際にこのドラマを見ている我々と一緒にそれを考察したりリアクションしたりしながら見る形になる。 そして、『ロキ』ではTVAの人々がテレビ画面越しにフェーズ3までの物語を見て、脚本として書かれた物語展開に沿わないことが起これば修正しにいく。TVAの人々はフェーズ3までの映画の製作者チーム、つまりマーベル・スタジオで働く人々のような存在となる。 さらに、『ホワット・イフ…?』でのウォッチャー、そしてエターナルズはフェーズ3で描かれてきた物語を鑑賞者として外部から見ていた人々である。

このようにして、メタ構造、それに合わせた外部からの視点がフェーズ3ラストの『スパイダーマン / ファー・フロム・ホーム』以降急速に導入される

フィクションであることの強調

その外部からの視点は、ヒーロー達からの主観を貫いていたフェーズ3までにおいて、希薄だったその外部の人々、市民の視点となる。それによって、透明化されてきた物語の外部を主観として描くことができる一方で、今まで主観的に描かれてきた物語が客観的に見られることにも繋がる

そして、そのメタ構造はその映画を作る製作者が存在すること、そして自分たち観客がその作られたものを見ているという事実を強調する。それによって、その物語がフィクションであることを観客たちに自覚させることになる。

そのメタ構造は『スパイダーマン / ファー・フロム・ホーム』『ワンダヴィジョン』というフェーズ3ラスト、フェーズ4最初の作品によって非常に丁寧に描写され、お膳立てされる。

メタ構造による物語の否定

そして、『ロキ』において遂にそのメタ構造によってフェーズ3までで描かれてきた物語がミステリオのように種明かしされ、否定される。

『ロキ』においてインフィニティ・サーガを通して描かれてきた物語が、征服者カーン(He who remains)によって描かれた物語だったことが明かされ、物語の中心となっていたインフィニティ・ストーンも意味のないただの石として現れる。(全てロキの妄想だったと捉えることもできるため、描かれていることの真偽は定かではない)それによって、フェーズ3までで描かれてきた物語が一気に陳腐なものになる。さらに、その物語のクライマックスにおける勝利も、ヒーロー達の自由意志によるものだったことが否定され、ただそう決められた物語だっただけということになる。

そして、フェーズ3までで描かれてきた物語が否定されると共に、その物語を司る上位の存在、世界を動かす大きな存在が現れる。そして、その大きな存在、それによる大きな動きに対して、インフィニティ・サーガで描かれた物語は無力となる

そして、その後の『ムーンナイト』はTVAをエジプトに置き換えれば『ロキ』と全く同じ構造を持つ(現実から遊離した別の世界があり、主人公にその世界の虚実の見分けがつかないこと、その世界を操る存在がいること、複数に分裂した主人公)。そして、『ムーンナイト』において前半で描かれる主人公の冒険はフィクション・妄想だったことが示される。(これも『ロキ』と同様に現実か妄想かは定かではない)物語が再度フィクションとして否定される。

次に描かれる物語は何か

では、これから新しく作られる作品はどのようなものになるのか。

アメリカを中心とした物語の継承

フェーズ3までで描かれてきたアメリカを中心とする物語は、ファルコンとウィンター・ソルジャーを中心としたキャプテン・アメリカシリーズやスパイダーマンシリーズのようなアメリカの都市を舞台とする作品に引き継がれていくように感じられる。

『ファルコン&ウィンターソルジャー』と『スパイダーマン / ノー・ウェイ・ホーム』のどちらにおいても、リベラリズムにおける福祉の象徴としてキャプテン・アメリカの盾が中心的なモチーフとなっており、そしてどちらの作品も、その社会・福祉の外部にある人々についての物語となっていた。 このように、アメリカを中心とした物語は引き続き作られ、フェーズ3までの物語においてヒーロー達の外部とされてきたような人々を包括していくようなものになっていくように思う。ただ、その物語がMCUの中心になることはもはやなくなる。

メタ構造機構としてのマルチバース

上記のようなメタ構造による物語の否定、物語の外部を描いた作品はおそらく引き続き作られていく。そして、今導入されつつあるマルチバースという概念は、今生きている世界とは別の世界が存在するすること、それを外部から見ることができること、そしてその世界、もしくは複数の世界を司る存在がいることによって、メタ構造と非常に相性が良い。実際にフェーズ4においてメタ構造を持っている映画 / ドラマの多くがマルチバースに関わるものである。

そして、『ロキ』で描かれた世界全体を司る存在、そしてどの並行世界でも自分という人間は自分である、環境や偶然の出来事によって人生の行き先が変わっていくだけという決定論的な設定によって、メタバースはその物語を無力にする大きな運命についての話となる。

おそらく、マルチバースはそのメタ構造を通して、インフィニティ・サーガで描かれてきた物語を否定しつつも、その物語で勝利したはずの自由意志とそれを否定する運命、大きな存在との葛藤を描いていくんだろうと思う。そして、それによってその運命、大きな存在の輪郭が形作られていく

新たな物語としての次世代

フェーズ3までは大きな物語があったからこそ、それらヒーロー達が団結することがクライマックスとなった。しかし、物語としての中心をなくし、さらにその物語自体を否定してしまった今、今いるメンバーが個別の物語においてクロスオーバーすることはあっても、全員が一つの物語において結集することはないように感じられる。

一方で、もしそうであればその異なる価値観・バックグラウンドを持った人々が分断を乗り越えるという物語がなくなってしまう。そのためには新たな中心としての物語を作り出す必要がある。そして、それを担うのがフェーズ4以降それぞれの作品で準備されつつある、次の世代のヒーロー達であるヤング・アベンジャーズなんだろうと感じる。

物語によって運命を乗り越える

3つのフェーズをかけて描いてきた大きな物語は、キャプテン・アメリカを中心とした人々の選択・意志が分断を乗り越え、共通の問題に打ち勝つ物語だった。しかし、その物語は選ばれた人々の話であり、その外部の人々が含まれていない。そして、フェーズ4においてその物語はただのフィクションであったことが明らかになる。さらに、今生きている我々は実感としてそれが理想であり現実には起こらないことを知っている。

フェーズ3までの物語を描いていたのは、世界を動かす大きな存在であり、共通の課題だったサノスもその物語の一部にすぎない。その世界を動かす大きな存在は征服者カーンによって象徴されるが、それは運命であり神でありマクロで見た人々全体の行動パターンであると言える。

その大きな存在による世界の大きな流れが、人々が分断を乗り越え団結するという物語に勝るものであるからこそ、フェーズ3までの物語は理想・フィクションでしかなく一度否定される必要がある

であれば、次作られる物語はその運命、神のような大きな存在、それによる抗えない大きな流れを乗り越えるものでなければならない。今MCUが以前の作品を全て否定してまで新しく描こうとしている物語はそのようなものなんだろうと思う。それが次世代の人々の物語としてのヤング・アベンジャーズの物語であり、征服者カーンがヤング・アベンジャーズに関わってくるのはそれが理由なんだろうと思う

そして、その運命、大きな流れはマルチバースに関わる一連の映画 / ドラマによって輪郭が形作られていく。そして、それは征服者カーンを通して、その次生まれてくる物語と合流するように思う。

終わりに

MCU作品、最近しっちゃかめっちゃかな印象だったけど、こうやって考えながら書いてみるとこれからの作品がめちゃくちゃ楽しみになってきた。実際こうなればいいなと個人的には思うし、それができるという期待があるからこそMCUをずっと見続けているんだろうなと思う。