2020年、東京郊外のスナップショット ー 三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』


ボクシングジムの会長の体調の悪化に対して医師は、変化が目に見えるようになればそれは既に手遅れであること、変化は落ちた雨粒が石に穴をあけていくように、少しずつ見えない形で進行していくことを伝える。

音が凄まじく作り込まれた映画となっている。音が空気の振動だとすれば、この映画における音はその表現力によって、噂話や壁越しに聞こえてくる怒鳴り声だけでなく、熱量や緊張、不安など、その場に漏れ出た感情による空気の揺れをも伝える。そして、カメラは固定されほとんど動かない。あたかも定点観測するように、2020年東京都郊外荒川近く、ケイコの限られた行動範囲における、目には見えない形で進行する変化をその空気を捉えることで描写していく。

その音によって伝えられる変化に、耳の聞こえないケイコは気づくことができない。ボクシングジムの会員は噂話や空気の変化によってジムの閉鎖を予感するが、ケイコはそれが発表されるまで気づかない。会長の体調の変化に関してもそうだ。そして、その変化は目に見えるようになった時点では既に手遅れなのである。音が情報量の多くを占める映画であるのに、主人公であるケイコにはその音が聞こえない。この映画は、その音の表現力、そこから汲み取れる言語的、そして非言語的な意味の豊かさを示すことによって、逆説的にケイコへと伝わらないものの大きさを明らかにする。

手話ができる人、手話ができなくてもケイコに何かを伝えようとする意思のある人、ケイコにとってコミュニケートできる他者は限られている。だからこそ、ケイコは相手からの働きかけがなければ、他者と関わろうとしない。そして、外部からの情報としてもケイコに伝わるものは限られている。そのために、ケイコは行動範囲を家の近くにしか広げることができない。新しいボクシングジムからの誘いを家から遠いからと言って断るのはそれが理由だろう。そして、今のボクシングジムも勤務先もケイコにとって限られた居場所だ。だからこそ、ケイコにとって周囲の環境の変化の持つ意味は重くなる。しかし、その変化はケイコにとって、手遅れの状態になって初めて気づかれるものである。

ケイコが最後に対戦する相手は、耳が聴こえず審判に伝えられないのをいいことに、足を踏んで転ばせるなどの違反行為によってケイコに勝つ。その対戦相手はその後、ケイコにとっての限られた居場所である川沿いに現れる。そこで、彼女が土地開発の労働者であることが明らかになる。そして、彼女はケイコには聞き取ることのできない早さで話す。いわば、彼女はケイコにとっての居場所の外部にいる存在であり、同時に変化をもたらすものを象徴する存在だ。つまりケイコの居場所を奪う変化を象徴する存在である。ラストシーンにおいて、その変化はケイコの居場所である川沿いにまで来ている。ケイコは手遅れになってからしかその変化に気づけない。だからケイコにその変化を止めることは出来ない。ボクシングジムの閉鎖、そして会長の体調の悪化を変えることができないのと同様に、ケイコがその対戦相手に負けることは予め決められている。

ケイコは自分から関わってこない他者、情報の掴めない環境に対して自分自身を遮断してきた。ケイコはそのような他者、環境に対して自分から目を向けようとしない。例えば、ホテルの清掃中、同じ部屋でベッドメイクができず四苦八苦している男性の姿はカメラには映っているが、ケイコには見えていない。そして、ケイコは環境の変化も見ようとしない。それがいつも手遅れになった状態で現れるからだろう。ケイコは自分の感情を表に出さないが、例えば、職務質問後の暗闇に立つケイコ、その上を通る電車の一瞬の不穏な光によって、カメラはケイコの中に押さえ込まれた感情があることを映し出す。

試合後、ケイコがその男性にベッドメイクのやり方を教える姿が映される。映画での出来事を通して、ケイコは見てこなかったものを見るようになる。その変化のきっかけとなるのが会長との鏡を前にしたシャドーボクシングのシーンである。ここで、ボクシングに再び打ち込もうとすることが、周囲の起こってしまった変化へと目を向ける、つまり目を澄ますことをも意味する。目を澄まし続ければ、目が乾き、涙が出る。目を澄ますことによって、抑え込まれてきたケイコの感情は外へと表れるようになる。そして、それが弟とその友人と踊る時の笑顔、試合での対戦相手への怒りの表出へと繋がっていく。

ラスト、対戦相手と川沿いで遭遇したケイコは、それでもトレーニングを続ける。ケイコがボクシングをする姿を直視できないままだった母親は、ケイコの試合に対して目を澄ますことができるようになる。ケイコと共に環境の変化によって居場所を失った会長は、その状況を象徴するような暗い病院の廊下でケイコが負ける姿を見る。その後、切り替えるように車椅子で向かう先はぼんやりとだが光に照らされている。

ケイコが川沿いの土手の上を走っていくラストショットは『耳をすませば』のラストシーンのオマージュのように見える。そう思えば、そもそもこの映画のタイトルもまた『耳をすませば』のオマージュであることに気づかされる。それはおそらく『耳をすませば』がこの作品と同じく都市開発によって失われていく郊外の景色を描いた作品だからだろう。エンドロールで映されるのは舞台である東京郊外の風景であり、そこにまだ目に見えるような変化はない。この映画は、その中にある目に見えない変化、そしてその変化により失われていくものを映し出す。この先オリンピックをきっかけとした再開発はケイコの住む地域にも訪れる。ケイコは、耳をすますのではなく、目を澄ますことによってその変化を見つめるようになる。それは新しい居場所を見つけることにも、その変化をもたらすものへの怒りにも繋がる。

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