野原位『三度目の、正直』日常 / 行間に潜むもの


野原位監督による2022年作『三度目の、正直』について。

他者に対する所有

役割、自分自身で内在化した理想像による日常的な抑圧についての映画のように感じる。

その役割を他者に押し付ける心理の根源には子供や妻に対する「自分のものだ」という所有の感覚がある。主人公はその所有による被害者であると同時に、その所有の感覚を内在化している。自分の子供という実現しなかった所有に縛り付けられており、過去生まれるはずだった子供の記憶をも含めて手放すことを拒否している。主人公は記憶喪失となった誰か別の親の子供と出会い、その子供を擬似的な自身の子供として共に生活することを通して、その子供、そして生まれるはずだった子供を手放すことができるようになる。所有による束縛から二人を自由にする。その記憶喪失の子供の実の父親は映画内ではすでにその所有的な感覚から自由になっており、主人公が行き着く先はその父親と重ねられる。

主人公がある種解放されていくのに対して、その役割や内在化した理想像によって追い込まれる人、自分や他人がわからなくなる人として主人公の弟の妻がいる。主人公の弟は夢を追っている自分を支えてくれる理想の妻のような形で妻を見ており、その一方的に妻を理想化する視線はライブのシーンでのラップの内容、そしてその後に続く「自分のものだ」という台詞によって露骨に現れる。そして、それによってその妻の心境との間に決定的な差異が生まれる。

記憶喪失の子供についてはほとんど語られないが、主人公との間と同じ所有されたような関係性が実の母親との間でもあっただろうこと、その母親が病気だったことによって、そのような母親に対して自分はこう振る舞わないといけないという抑圧があったように感じられる。

日常には他者を自身の所有物のように見る視線が存在しており、所有された側は道具・アクセサリーとしてその役割を果たすことを自身に課してしまう。その他者、そして自分自身によって日常的に蓄積された抑圧は自分も他人もわからなくなってしまうという崩壊へと繋がっていく。記憶喪失の子供の父親を除き、この映画での登場人物は全員所有する / されるという関係性を内在化している。主人公は二人の子供を手放すことで、その所有する / される関係性から解放される。役割の前に人間であるということがこの映画の帰着点であるように感じる。

感想 / レビュー / その他

セリフやシチュエーションを通した日常とそこに潜む抑圧の描き方が非常に現実的で、この映画自体が日常の延長線上にある感覚がある。その一方で、関空のエレベーターのショットだったり、前半の主人公が自殺しようとするクライマックスの後の肉工場など、ショットの撮り方や繋ぎ方によってその日常に蓄積されてきた恐ろしい何か、人間の中にある非人間的な何かが見えるような非自然、非日常的な感覚も同時にある。音や光も、日常的なものであると同時に一気に恐ろしいものに変化する瞬間がある。行間がかなり豊かな映画でもあって、その日常と非日常・非自然が連続的に存在する演出によって、その行間により恐ろしい暗部のようなものが見えるような感覚がある。エドワードヤンの映画、特に『恐怖分子』に近い感覚。『三度目の、正直』というタイトルにおける何か不自然な位置におかれた "、" こそがこの映画の感覚を象徴しているように感じる。

日常における役割と自身のずれが日常の深部(濱口監督の作品における川の底)に蓄積されていくという点で濱口監督の映画と主題としては共通するように思う。一方で、濱口監督の作品はある種神の視点からであり、それゆえに抽象化だったり漂白された感覚、現実から遊離してるような感覚があるが、この映画は逆に当事者視点で、日常の延長線上にあるからこそのおどろおどろしい感覚がある。濱口監督の映画は自分を言い表されたようなぞっとする感覚がありつつも見ようと思えば他人事として見れてしまうのに対して、この映画は全員を当事者においてくるような感覚があって感情的なカロリーがかなり高かった。

作品詳細

  • 監督:野原位
  • 作品:三度目の、正直
  • 製作:2022年 日本

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