歴史と亡霊、レンブラントの光 ー オタール・イオセリアーニ『蝶採り』


オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1992年作『蝶採り(La Chasse aux papillons)』について。

歴史と亡霊、レンブラントの光

フランスの古城、所有者といとこを中心にマハラジャ、べん髪のベジタリアン集団、飲んだくれの神父など様々な民族を含んだコミュニティが築かれており、親密なようで嫌いあってもいるような関係性、独自の奇妙で自由な暮らしぶりを成立させている。所有者の一族は女性ばかりで、それは男性達が戦争によって亡くなったからだということがわかる。その古城には一族の歴史が蓄積されており、亡くなった男達が軍服を着て亡霊として暮らしている。

古城を中心としたコミュニティは自給自足しているようで、独立した国家のようなものとなっている。ただ、古城は常に資産としての視線に晒されており、そのコミュニティの外ではテロが起きていることがラジオを通して伝えられる。

古城の家具を売る時、所有者達の思う価値と、買取主の思う価値がすれ違う。それは所有者達が積み重ねられた歴史を価値としている一方で買取主が資産価値を見ているからとなっている。そして、古城を買い取ろうとする日本人達は城自体に価値を置くが、所有者達が価値をおくのはその歴史が積み重ねられた家具となっている。

コミュニティは所有者が亡くなることによって解散してしまう。所有者はロシアに住む妹にのみ古城含む全ての遺産を相続し、遺産を資産として見ている他の一族の人々にはしない。しかし、妹の娘は古城の家具に価値を見出さない。亡霊の存在を見ず、彼女にとって使用人は使用人という役割でしかない。彼女は古城を日本人に売り払い、ロシアからパリに移り住み、ロシア人の友人達と暮らす。所有者の妹は一族の写真を部屋に飾ろうとしている。娘は締め出し、閉じ込めるようにその部屋のカーテンを閉める。古城にあった一族の歴史や亡霊がその小さな部屋にしか存在しないように、そして所有者の妹の死と共に失われるように感じられる。

日本人達は古城だけを買い、家具は買わない。そのために家具は古城から失われる。映画の終わりにおいて、日本人は日本人だけで、ロシア人はロシア人だけで暮らしている。古城にあった一族の歴史や亡霊だけでなく、共存関係もまた失われ終わる。

『唯一、ゲオルギア』ではジョージアで多民族、多宗教が共存できていたのは築き上げられてきた文化や関係性によってであり、ソ連占領下でそれがシステムに置き換えられた結果、共存が失われたことが語られていた。そう考えれば、古城のコミュニティはジョージアに、資本主義的な価値観を内在化した人々はソ連とそのシステムを抽象化したものにも思える。

古城を中心としたコミュニティの外に広がるのはシステム化された世界であり、システムは分断を生み出す。それを象徴するのがストライキとテロであり、所有者の妹はストライキを目の当たりにし、コミュニティの人々が新たな土地に向けて乗った電車はテロによって破壊される。

一族の肖像画がレンブラント風に描かれていると言及される。コミュニティを映す前半は光と陰影によって非常に美しく撮られており、絵画的な止め画も多く用いられるが、それは古城に蓄積された歴史が保たれていたことを示すからだろう。象徴的に出てくるのが集合写真を撮るカメラで、前半では非常に古い写真機が使われるのに対して、所有者が亡くなって以降は最新のカメラが使われる。そして、映像の質感も現代的なものへと変化していく。そして、古城にある写真や所有者の妹の持つ写真も古い写真機で撮られたものとなっている。

様々な文化、国家にある人々が差異を持ちながらも共存し分断されていく様を描いた映画であり、日本人達含めたあらゆる人々がその文化的な独自性を強調された形で登場するのは、差異を強調するためだろうと思う。そして、そのある種戯画的な撮り方は古城でのシーンに限られていて、その外でのシーンは現実的に撮られている。それは、古城とそのコミュニティが現実にはもう存在しない、ファンタジーの世界だということを示しているんだろうと思う。だからこそ、その終わりである汽車の爆破もまた、あからさまなエフェクトで映されるんだろう。