オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1994年作『唯一、ゲオルギア(Seule, Georgie)』について。
共存から内戦へ
かつて複数の民族、宗教が共存していたジョージアがなぜ内戦へと至ったのかという問いが冒頭におかれ、紀元前からこの映画の編集完了時点である1994年に至るまでの歴史が語られる。
二部でジョージア出身のスターリンと対比的に出てくる人物はエドゥアルド・シェワルナゼで、同じくジョージア出身で、ゴルバチョフの右腕でペレストロイカを進めた人物らしい。ペレストロイカが結果的にソ連の崩壊とジョージアの独立に繋がったので、ソ連のジョージア侵攻を進めたスターリンとの対比になっているということなんだろうか。その後、バラ革命によって大統領を辞任したらしい。
一部ではソ連占領以前、ジョージアの歴史や宗教、民族性や生活、パンやワイン、ポリフォニー、舞踊といった伝統など、ジョージアのかつてあった姿が語られ、二部ではそのジョージアがソ連に占領され”ソ連化”されていく過程、そして三部ではその後の独立から内戦に至るまでの過程が語られる。
多民族が共存するジョージアの姿はポリフォニーに象徴される。ポリフォニーはジョージアを含む地中海沿岸地域をルーツとして持つ。ポリフォニーはそれぞれが独立したメロディーを歌うものであると同時に、厳格で修練に非常に時間がかかるものでもある。ポリフォニーにおける厳格さは、ジョージアの人々が独自の宗教性、騎士道、もしくは倫理観を厳格に保つことによって、その多民族性、多宗教性が維持されてきたことを示す。
それは同時に、ベランダを開け放して会話するような開放的な国民性、集落に一つ見張り台があるのではなく集落にある全ての家に一つずつ見張り台があることに象徴される、自分のことは自分で責任を持つような個人主義的な国民性とも結びつく。家ごとに見張りを持つという方法で防衛できていたこと、そしてそもそも多民族が集まってきたことの理由として地理的な要因も結びつく。それら国民性が失われたことが、ベランダが今では観光者向けの装飾としてしか機能していないこと、防衛手段が国の一つの軍へと集約されてしまっていることに象徴される。
土着の信仰と聖ニノによって伝えられたキリスト教が合わさった独自の宗教であるジョージア正教が中心的な信仰となっている。そして、その宗教性が生活や産業とも結びついている。パンやワインは宗教的な用途を持っており、その製造過程もまた儀式性の高いものとなっている。しかし、ソ連の占領下において、パンやワインの製造過程は機械化、標準化される。生産性のためにその多様性を失っていく。そして、信仰は社会主義に置き換えられる。
ジョージアの伝統や宗教、国民性はその地理や様々なものと結びつきながら作り上げられた、多民族、多宗教間の共存のための基盤だったことが示される。そして、それがソ連の占領下における近代化、ソ連化によって失われてしまったことが語られる。そして、それがさらに内戦へと繋がっていく。
三部では二つの内戦が描かれる。独立後社会主義を失ったジョージア国民が新たな信仰先を求めて個人崇拝に走り、それによって独裁政権が生まれてしまう。そして、それに対するデモ運動をきっかけに一つ目の、政権支持者と非支持者の間の内戦が起こる。そしてその独裁政権はある種ロシアによる傀儡政権だったことも語られる。二つ目の内戦は、ジョージア内の民族間紛争であり、ロシアがジョージア内の複数の民族を独立へと扇動し、軍事支援したために起こったと語られる。その目的は、ジョージアがロシアに従順に振る舞うようにするための脅し、独立した民族の領土をロシアのものにすることにある。
最後に、交響楽団の演奏がポリフォニーと対置される。その演奏は、全員が厳格に同じメロディーを弾くものとなっている。ポリフォニーがかつてのジョージアを象徴するものだとすれば、交響楽はソ連占領後のジョージアを象徴するものとなっている。その後、その楽団に多くの空席があることが示されて終わる。それは内戦によってジョージアから離脱してしまったアブハジ人などの民族達が座っていた席となっている。
独裁者と信仰
二部と三部では独裁者と新たな信仰の関係性が描かれている。二部と三部はジョージア人指導者が対比的におかれていて、二部はジョージア出身であるソ連の独裁者スターリンと、ゴルバチョフの右腕としてペレストロイカを推進したエドゥアルド・シェワルナゼが対比される。ジョージアの侵攻はスターリンによって行われ、ペレストロイカは結果的にソ連の崩壊、ジョージアの独立に繋がる。三部ではジョージア独立過程での独裁者であるズヴィアド・ガムサフルディアと、シェワルナゼが対比される。ガムサフルディアの独裁は支持者と非支持者の内戦に繋がり、非支持者の勝利によりシェワルナゼが初代大統領となる。
スターリンがソ連化によってジョージアが基盤としていたものを解体した人物なら、シェワルナゼはゴルバチョフと共にスターリンによって作られたシステムを解体した人物となっている。スターリンによる解体は信仰先を宗教から社会主義に変えたが、シェワルナゼによる改革の結果、その信仰先としての社会主義が失われ、ジョージア人は新たな信仰先を求めて個人信仰に走り、ガムサフルディアが権力を持つようになる。そして、ガムサフルディアの追放後、シェワルナゼが大統領となり、民主化と自由が次の信仰対象となる。そして、民族間の内戦が起こる。
ここで、スターリンが神学校を中退し社会主義運動家となったことが言及される。そして、ガムサフルディアは教会の権力を利用する形で権力を得ていくようになる。二人の独裁者は自身を人々の信仰対象としようとする人物となっている。いわば、二人の独裁者はジョージアの民族間共存を可能としていた基盤の一つである宗教を消し去ることによって権力を得た人物となる。
この映画において、肯定的に描かれるのはかつてあったジョージアの姿のみであり、シェワルナゼは曖昧な立場から描かれる。ある種、シュワルナゼは基盤の空白を埋めるために仮に置かれた人物のように見える。シュワルナゼは自身が若い頃は理想家であり今は希望や情熱を失ってしまったと語る。インタビュイーとして登場する今のシェワルナゼは基盤を失ってしまった今のジョージアを象徴するような存在のように見える。かつてあったジョージアの姿を描く一部に対して、二部と三部は近代以降を描きながらも、シュワルナゼを中心にこれからのジョージアの姿を映し出そうとしたものに思える。そして、シェワルナゼはこの映画の後、ガムサフルディアのように、革命(バラ革命)によってその座を降ろされることになる。
感想
『四月』でのベランダ越しのシンクロがジョージア人特有の国民性をそのまま表現していたこと、そこでの舞踊がジョージアの伝統だったこと、『田園詩』での「窓をこっちに向けるな」というセリフが象徴していたものなど、色々な発見があった。一部で、ジョージアの12-13世紀フラスコ画がルネサンスを先取りしていたことが語られるが、その画面の感じがセルゲイ・パラジャーノフの画面の独特なビザンティン美術的な感じそのままだった。それ以前にも、独立を目指していた知識人の中に占領下で同じようにジョージアの伝統的なフラスコ画を現代絵画に落とし込んだ画家がいたりしたらしい。