暴力的状況 / 着せられた役割 ー オタール・イオセリアーニ『鋳鉄』


オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1964年作『鋳鉄(Tudzhi)』について。

溶鉱場で働く人々の朝から次の朝までの24時間をドキュメンタリー的に撮った短編で、都市映画の形式を持っている。シチュエーションと構成だけ見れば『鉱』と非常に似ている。同じ時期のイオセリアーニの作品と同様に音がアフレコでつけられており、溶かされ白く光る鉄からは猛獣の鳴き声が発され、溶鉱場の内部には戦場のような爆発音が鳴り響く。溶鉱場内部が戦場であり暴力そのもののように映される。

溶鉱場の煙突から出る煙、溶鉱場に向かう道に整然と植えられた木は、他の作品で登場するジョージアの自然の風景との対比されているように感じる。労働に向かう人々を亡霊のように映す俯瞰ショットから、溶鉱場内部のシーンに切り替わっていく。労働に向かう人々は綺麗なスーツを来ている。溶鉱場内部の暗闇と溶鉱場の外の明るさが対比されており、溶鉱夫達は外の日差しの下で、溶かされた鉄で焼いた鳥、煙草で一瞬の自由を楽しみ、溶鉱場の中に戻される。

着替えのシーンが象徴的に出てくる。作業服を着ることで溶鉱夫という違う人間になり、労働後作業服を脱ぎ、煙や煤、汗を全て流すことで元の人間に戻る。溶鉱夫という役割に変容させられることもまた、他作品での人々の自然な姿との対比となっているように感じる。溶鉱夫という役割を作業服が象徴するなら、汗が染みた作業服を送風機で乾かして復活させるシーンは、復活させないといけない、つまり限界を超えて働いていることを象徴しているように感じる。

唯一、ゲオルギア』でジョージアはソ連占領下で近代化を強制されたと語られているが、この溶鉱場も同じく強制されたものなのだろう。このような環境下で働かされること、そしてそれを繰り返す日々を送ることの強制こそが凄まじい暴力であるように感じられる映像と音となっている。最後、労働に向かう人々を亡霊のように映す冒頭の俯瞰ショットが反復された後、暗い溶鉱場内でクレーンがカメラに向かって段々と迫り、被さることによって映像が真っ暗になって終わる。繰り返しが永遠に続くような暗い予感にも、カメラが溶鉱場から決定的に分たれてしまったようにも感じられるショットで終わる。