苛烈化する支配、フィクションによる復讐 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『カンタベリー物語』


ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』をベースとした映画で、『デカメロン』に続く生の三部作二作目。

イギリス、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼旅行、旅行を楽しむために参加者達が語った話を、そこに居合わせたパゾリーニ演じるジェフリー・チョーサーが、自室で物語として書き起こしていく。パゾリーニ=チョーサーが「冗談が真実を含むこともある」と話すように、『デカメロン』と同じくコメディックな物語のコンピレーションのようでありつつ全体として現代社会を描いたものにもなっている。原作はボッカチオ『デカメロン』に着想を受けて書かれたものらしく、途中チョーサーがデカメロンを読んでサボっているシーンはそれを表している。

構成としては『デカメロン』と同じくニネット・ダヴォリとフランコ・チッティの登場する物語は別枠扱いとなっており、フランコ・チッティの物語と最終話が作品の軸となっている。『デカメロン』の舞台はナポリだったが、今回はイギリス各地に移されている。

1話目は女性を肌の感触だけを基準に選び、強制的に妻にした富豪の話。富豪はその女性を自分の元から一時も離そうとしない。その二つの性質を業として反映するように富豪は視力を失い、それによってそれら性質が過激化する。元から感触のためだけに生きており他の全てが見えていないため、視力を失ったことに不都合がない。そして、視力を失ったことにより女性を離さないように常に身体的に束縛するようになる。女性には恋人がおり、富豪が目の見えないことを利用して恋人とセックスをする。それを見ていた男の神は、女性が富豪を裏切ったことの罰のように富豪の視力を回復させる。富豪はそのセックスを目撃することになるが、今度は女の神が、女性が恋人と引き裂かられ強制的に結婚させられたことへの償いのように、女性に言い逃れする能力を与える。しかし、結局女性は恋人から離され資産家の妻として繋がれたままである。

2話目は最終話と繋がっている。男色が行われていないか監視する召喚人、そしてその報告によって召喚された警官は男色を行った男達に対して、見逃すことを理由に賄賂を強制している。賄賂を払えない男は火炙りにされる。それを知ったフランコ・チッティ演じる悪魔は召喚人に、農民に冤罪を着せて搾取することを提案し、それに乗った召喚人は悪魔と契約を結ぶ。金のない農民は召喚人に対して、その家で一番価値のあるものとして水差しを提供する。契約をしたことでその召喚人は悪魔のものとなり、悪魔は召喚人と水差しを手に入れて去っていく。男色への火刑、賄賂、冤罪での取り立てが行われている腐敗した権威、その権威側の人々は悪魔と契約した人々だと指摘するような物語。

3話目はチャップリンのような存在についての物語。主人公はニネット・ダヴォリによって演じられていて、杖、背格好、スラップスティック的な動きともにチャップリンを模したようなキャラクターとなっている。また、1話目の富豪の妻はチャップリンの娘によって演じられている。この物語において、主人公のみが映画的な存在、奇跡を起こす存在としておかれており、主人公の逃走は常に成功し、卵を落としても一つも割れない。 主人公は見つけたものにそのまま反応するし、追われれれば逃げる。スラップスティック的な行動原理に従って動く。盗みを行い警官に追われるが、スラップスティック的に回避する。その後も見つけたパーティに参加し破壊し、仕事を見つけるが仕事を放棄して近くで行われていた賭けに参加する。それを見つけた雇い主から逃走し商品である卵を割り、最後は娼婦と寝る。 しかし、主人公の生きる社会は、そのように欲望的に生きることが許される社会ではなく、主人公は警官に捕まり死刑にされるが、死刑執行の間も自分が死ぬことを知らないように、コメディキャラクター的に笑顔で歌い続ける。 2話目では悪魔に憑かれた体制が男色し賄賂を払えなかった男を火刑にするが、ニネット・ダヴォリもまた同じく体制によって処刑される。 パゾリーニの映画において共通して、ニネット・ダヴォリ演じる役柄は無知で意志がなく、欲望のまま動く純粋無垢な存在として描かれる。この物語ではそれがチャップリンなど初期映画の純粋な存在と重ね合わせられている。『デカメロン』ではニネット・ダヴォリ演じるキャラクターは騙されつつも最後は幸福を得て生き延びるが、『カンタベリー物語』はそれよりも時間が進みより全体主義の苛烈化した社会を描いているため、ここで主人公は殺されてしまう。また、現代を描いた『豚小屋』などの作品ではニネット・ダヴォリの演じる同じようなキャラクターは、無意識のうちに体制の被支配下にあり、虐げられるが抵抗もしない人物として描かれている。

4話目は凄まじく爆発力のある展開を持っていて、この映画で初めて権力者が登場しない物語となっている。ノアの方舟を悪用することよって不倫を成功させようとする話であり、女性の夫、その不倫相手、その女性に片思いする男、全員が痛い目を見るという、市井の人々が違いに騙し合い互いに痛みを与え合う話となっている。ここで、女性と不倫相手は、片思いする男に対してキスをすると騙して顔に放屁して揶揄うが、これは最終話にも登場するモチーフとなっている。

5話目は悪魔のような資産家女性についての物語である。主人公の女性は自分の性欲を満たすため、夫を消耗品のように、死ぬまで無理なセックスを続けさせるということを繰り返している。主人公は死んだ夫達の財産を引き継いでいくことで資産家となっている。主人公は男の生命力だけでなくその財産まで全て吸収していくような存在となっている。 夫を新たに亡くした主人公は新たな夫として学生と結婚する。同じ時間に同じ教会内で行われた元夫の葬式からそのまま新しい夫の結婚式に移る。 ただ、新しい夫は性欲のない本以外の何にも興味がなさそうな学生であり、主人公が悪魔であることを指摘する。主人公はその夫の鼻に噛み付くが、その姿は悪魔的な構図で映される。 権力者が悪魔に憑かれているとおかれていることを考えれば、男達から性を搾取することで資産家となった主人公は、他権力者のように悪魔的な存在に近づいてきているという話となっている。

6話目は教会下の労働者である父が、教会の学生二人、つまり将来的に権力者となる二人を騙し搾取しようとするが、結局自分だけが痛い目を見るという物語となっている。 教会学生寮から出て自由を得るため、二人の学生が仕事を引き継ぎ粉挽きの家庭の元に向かうが、その父親は二人を泥棒だと決めつけ、二人の馬を逃し二人の作った粉を奪う。その夜、片方が娘とセックスしようとするが、途中もう片方が母親とセックスするために揺籠の位置を変えたことによって、娘と学生はセックスができ、母親は父親とセックスしたと思ったままで、父親だけが痛い目を見るというオチに至る。

7話目は信仰を持たない市井の人々が、規範を逸脱し、自分の欲望の充足だけを優先した結果互いに殺し合う話として、4話目と共通する話となっている。 娼館で思い思いのプレイをしていた四人兄弟のうち、一人が食事中の資産家達に対して、その堕落をからかい尿をかけていく。結果資産家によって殺され、残った三兄弟は目撃者の死神に刺されたという比喩的な言葉を鵜呑みにして、復讐のため教会に死神を探しに向かう。その教会の僧侶は死神の居場所として大金のおかれた木元を指す。それを見た三兄弟は大金を独占するため互いに殺し合い、結果三人とも死ぬ。三人の殺し合い、毒による嘔吐が夕日を背景として陰影によって映されるが、それは何かヒロイックな場面に見えると同時に、何かの終わりのような黙示録的な場面にも見える。 彼らは信仰や規範を持たず、自身の欲望を最優先するがゆえに、互いに殺し合ったようにも、それを見抜いた教会の僧侶によって殺し合いに誘導されたようにも見ることができる。ここでも、資産家は罰を受けない。

最終話である8話目は、召喚人をメインとした2話目の続きのような話となっている。召喚人が病人の男はから資産を奪おうとするが、男は資産を渡す代わりに召喚人に放屁する。召喚人はその後天使を見るが、そのままその人含めた召喚人達がこれまでの行いによって地獄に送られる。その地獄では、悪魔の放屁からその糞のようにさらなる悪魔が生まれていき、それら糞のような悪魔によって召喚人達が、責め具を受けさせられ禁じてきた男色によって犯される。

『デカメロン』と同じく権力者、その定めた性規範によって抑圧される人々を描いているが、それに反した人々が火刑、絞首刑される姿が映されるように、ここではその支配がより苛烈化している。『デカメロン』と同じく人々は自分の欲求の充足のために互いに騙し合う。結果因果応報のように報いを受けるが、その中で将来的な権力者である学生含め、権力者達はその報いを受けない。最終話では搾取的な支配を行う一方で、自分達は罰から逃れる体制側の人々が地獄に落とされ、その地獄において彼らが人々に対して働いてきた悪魔的な行為の報いを受けさせられる。放屁が2話共通して登場するが、最終話ではそれが市井の人々による権力者への反抗手段として置かれる。地獄で彼らは悪魔達の放屁によって生まれた悪魔達によって、彼らが禁じてきた男色によって罰されることになる。各話において報いを受けない権力者達は、最終話において地獄に落とされ最大の罰を受ける。

『デカメロン』が体制によって性を抑圧された人々を神を通して解放する映画だったとすれば、『カンタベリー物語』は抑圧、搾取を行ってきた体制の人々を地獄に落とし、悪魔によって罰させる映画となっている。そして、それら解放と復讐はジョット=チョーサー=パゾリーニの想像の中、フィクションの中で行われる。ラストは「語る楽しみのために書かれた物語。アーメン」というような一文で終わるが、それは内容のインモラルさを神に謝る形で終わる原作のラストの文章を「アーメン」という言葉以外に関して、自分達が望んで書いたものだという形に反転したものらしい。『デカメロン』が実際にはそうならない現実に対して諦念したような感覚で終わるのに対して、この映画のラストは、より差し迫った望みを表したもののように感じる。

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