まなざしについての物語『シー・ハルク:ザ・アトーニー』を読み解く / MCUはマルチバース・サーガで何を物語ろうとしているのか

※ 『シー・ハルク:ザ・アトーニー』『ロキ』のネタバレを含みます

舞台設定

冒頭、初めての最終弁論を控えたジェニファー・ウォルターズ(ジェニファー)は「楽しい法廷ドラマに集中してもらうために」という前置きの元、第四の壁を越え、視聴者に向けて能力を得るに至った経緯を語り始める。ジェニファーは事故によって、従兄弟であるブルース・バナーのようにハルクへと変身する能力を得て、その後人々にシー・ハルクと呼ばれるようになる。しかし、彼女にとって大事なことはそれではない。彼女が視聴者に語りたいのは、遂に手に入れた弁護士としての仕事、そこで巻き起こる「楽しい法廷ドラマ」である。その物語において変身能力を持ったことはサブストーリーでしかないが、その経緯を説明しないと視聴者にとってはノイズとなってしまう。このドラマシリーズの第一話は、そのような前提を置いた上で最終弁論というクライマックスに向けて動き出していく。

第四の壁が越えられることによって視聴者は自分たちが視聴者であり、この作品が現実世界の誰かによって書かれ、撮られた「フィクション」であるということを意識させられる。そのようなメタ的な視点に立てば、主人公の物語が進む先を決めるのは主人公ではなく、それを書く脚本家達にあることが明確になる。そして、それら脚本家達は、視聴者の見たいものはジェニファーの法廷ドラマではなくシー・ハルクのドラマだと言うかのように、敵であるタイタニアを「ご都合主義的に」最終弁論へと乱入させる。それによって、ジェニファーはシー・ハルクへと変身しタイタニアと戦うしかなくなる。彼女にとって弁護士としての見せ場であったはずのクライマックスは、脚本家達の手によってシー・ハルクによるバトルシーンへと変更されてしまう。その結果、ジェニファーは弁護士としての仕事を失い、「法廷ドラマ」を見せ続けることが不可能になってしまう。さらに、この事件がメディアによって報道されることで、シー・ハルクという存在が人々の間に知られるようになる。

視線の変容

ここで、シー・ハルクは「視聴者が見たいと望む(と製作チームが考えている)存在」であり、それを反映するように、劇中の人々も魅力的な外見、超人的な身体能力を持つシー・ハルクを求めるようになる。それと比較して、ジェニファー、そしてその法廷ドラマは地味であり視聴者によって求められるものではない。視聴者、劇中の人々から「見られ求められる」シー・ハルクに対して、ジェニファーは徹底して「見られない」。ブルース・バナーと違い、ジェニファーは変身時にも人格が変わらず能力のコントロールが可能である。しかし、他者から眼差された人格においてその二者は分け隔てられている。いわば、ジェニファーにおいてもブルース・バナーと同様、ハルクになった自分と本来の自分の間の乖離が問題となる。ジェニファーはシー・ハルクとして人々に認識されることによってその現実と直面していく。

加えて、このドラマの舞台は法律事務所だ。女性弁護士であるということは、男性弁護士に対して「仕事量は二倍、収入は1/2」であり、「女性弁護士」というレッテルを貼られ続けることだと言及される。ジェニファーは法廷においても、ジェニファーとして「見られない」。そして「シー・ハルクとして」超人専門の法律事務所からスカウトされ働くようになる。ジェニファーはそこでシー・ハルクとしての姿と行き来しながら働き生活していくことを通して、シー・ハルクとしての自分を受け入れていくようになる。

その最大の契機は第七話に置かれている。ジェニファーは遂に自分をシー・ハルクではなくジェニファーとして見るジョシュに出会い、デートを重ねる。しかし、ジョシュは目的を果たした後ジェニファーを捨てたように、音信不通となってしまう。それによって、ジェニファーは自分が決定的に「見られない」存在であることを実感し、同時に、ジョシュ以外の全ての物事が視界に入らない、つまり「見ることができない」状態へと陥る。そこに現れるのが、エミル・ブロンスキーのコミュニティにいる能力者達であり、彼らは自分たちがジェニファーをジェニファーとして見ていて、そのような人がこの先にも現れるということを伝える。ジェニファーはそれによって自分を「見ている」人々の存在を確認し立ち直るが、ここで、そもそも彼らはジェニファーが「見ることのできなかった」人々ではなく、奇異な能力者達として無視しようとしてきた、「見ようとしてこなかった」人々である。そして、彼らはモブの能力者達として登場する。彼らは、ジェニファーと同じく「見られない」人々なのだ。ここで、ジェニファーは「見られない」存在であると同時に、「見ようとしない」存在でもあったことが明らかになる。そして、対話を通して「見ていなかった」彼らを「見る」ようになることで、自分が「見られる」存在であることに再度気づくのだ。(また、これはオマージュされるHAIM『Now I'm Init』及びそのポール・トーマス・アンダーソンによるMVの主題を転換したものとなっている)

ハッピーエンド / クライマックス

そうして、ジェニファーとシー・ハルクの間にあった「見られる / 見られない」という乖離は解決される。第八話では自分をシー・ハルク、そしてジェニファーとして見るマット・マードックとも出会い、ジェニファーとしての物語はハッピーエンドを迎えるのだが、ここで、何がシー・ハルクを「見られる」存在にし、何がジェニファーを「見られない」存在にしたのかという問題が立ち現れる。

それは視聴者、そしてその求められる物語を提供しようとする脚本家達ということになるのだろう。マーベルのドラマの最終話は全て「登場人物達が集合し、スーパーパワーによるバトルのあるクライマックス」を迎える。なぜならそれが視聴者に望まれているものだからだ。最終話において、ジェニファーの物語は脚本家達によってハッピーエンドから引き離され、望まれるクライマックスへと展開させられる。これは法廷にバトルが持ち込まれた第一話の反復であり、物語の決定権は未だジェニファーではなくスタジオにあることを示している。だからこそ、最終話のタイトルは「これは誰のドラマ?(原題)」なのだ。

自分が「見られる」存在であることを知ったジェニファーは、第一話と違い、第四の壁を越え、ドラマから現実世界へと飛び出しマーベルスタジオ内、シー・ハルクの脚本会議へと入り込む。そこでこの展開を決定したのがケヴィン・ファイギ(KEVINという人工知能)であることを知り、直接異議を申し立てる。これは第一話でスタジオによって中断させられた最終弁論と対応するが、ここでKEVINに対してジェニファーは一人の視聴者のように振る舞う。つまり「見られる」存在から「見る」存在へと変化している。それによって、この『シー・ハルク:ザ・アトーニー』というドラマを自分のドラマとする。ジェニファーは自分を見ていた存在を見返すことによって、自分を「見られない」存在にしていたスタジオを乗り換えるのだ。ここで、法廷=ドラマ、陪審員=視聴者と考えれば、法廷がこのメタ構造とも重ね合わされていることがわかる。このドラマのラストにおいて、「見る」ことができるようになったジェニファー=シー・ハルクは「見られる」存在として主人公となり、法廷に立つ。

カーン=KEVIN

『シー・ハルク:ザ・アトーニー』においてMCU映画・ドラマの登場人物達の運命はKEVINによって決定され、その下部組織であるマーベルスタジオによって具体化されたものであることが明示された。ここで『ロキ』において、同じように全ての登場人物達の運命を決定していた存在がいたことを思い出そう。それは在り続けるもの=カーンであり、その下部組織であるTVAはマーベルスタジオと対応する。そして、続くサーガにおけるメインヴィランがカーンであることは知られている。

カーン=ケヴィン・ファイギはあらゆる全ての他者の運命を決定するほどの大きな力を持ち、それら運命を独裁的に中心となる一つの物語へと収束させようとする存在である。そして、その存在によって"書かれた"物語がインフィニティ・サーガだったのだ。また、『シー・ハルク:ザ・アトーニー』のマーベルスタジオでのシーンにおいて、アンクル・サムをキャプテン・アメリカに置き換えたポスターが執拗に映されることを考えれば、その存在をアメリカに、インフィニティ・サーガをアメリカを中心とした歴史観に重ねることも可能だ。

MCUはそのような存在を解体し、乗り越えていく物語を書こうとしているのだろう。そして、そのような存在と対置されるのが、無数の物語が平行に存在し続けるマルチバースだ。だからこそ、続くサーガはマルチバース・サーガと名付けられたのだろう。

『シー・ハルク:ザ・アトーニー』『ロキ』のようなメタ構造は『ムーンナイト』『ワンダヴィジョン』においても物語の骨格となっている。『ムーンナイト』をヴィランのマインドコントロールによって物語を書かされた主人公についてのドラマとして、『ワンダヴィジョン』を望む物語を作り出そうとした結果ヴィランとなっていく主人公についてのドラマとして見れば、MCUがメタ的な位置、物語の外から登場人物の運命を決定する存在を描こうとしていることがより明確になるだろう。そして、ジェニファーを含む主人公達はそれぞれの方法でそのヴィランを乗り越えようとするのだ。

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