中編の間に短編を挟み込んだ5話構成のオムニバス映画。全ての作品でシルヴァーナ・マンガーノが魔女として現れるが、魔女をどう解釈するかは作品によって違っている。おそらく魔法=アメリカとして、現代生活に適応した新しい女性像が魔女として置かれているのだろう。基本的にブラックコメディで、女性を軸とした現代社会批判のようになっている。5話全部面白く、特に短編二つの速度と密度が凄まじい。
ルキノ・ヴィスコンティ『疲れ切った魔女』
原題は『生きたまま焼かれた魔女』。魔女=セレブリティ=商品として、現代を舞台にして魔女裁判を描いたもの。人気モデルである主人公は、友人の婚約10周年のパーティに出席する。そこで主人公に対して、モデルであるということは商品であるということであり、その容姿やファッション含めた全てが、商品でいう成分であり他商品に対する競争優位になる、だからこそ何も変えることはできないと男性が語りかける。主人公は魔術を持つように、誰からも欲望、嫉妬されるような魅力を内に持っている。その後、友人の周囲の男女は、意識を失い動かなくなった(=物化した)主人公を商品=物として主人公に対して抱く欲望、嫉妬のままに好きに扱う。それは魔女とカテゴライズされた女性に対する大衆の行動と重ね合わされる。 主人公は、友人といる間だけ人間として扱われ、人間として行動できる。失神の原因が妊娠だったことに気づいた主人公は、出産のため仕事を休もうと夫に話す。しかし、妊娠するということは商品としての成分が変わることである。夫は今の子供は諦め、スケジュールの空く1年後に新しく子供を作ることを提案する。主人公はお腹の子供含めて人間ではなく商品として扱われている。また冒頭、主人公の夫が人殺しと呼ばれる理由は、このようなことが繰り返されているからということが明らかになる。次の日、主人公が丁寧にスタイリングされ、商品としてヘリコプターで出荷されていく姿が映されて終わる。生きたまま商品化される主人公の姿が、生きたまま焼かれる魔女の姿に重ねられる。 カメラは、主人公が意識を失っている時は装飾の一部のように、インテリアやドレスのと同化させるように煌びやかに映す。そして、人間として動く時は、陰影によって内に魔女を秘めた女性のように映す。それが極まるのが、主人公が友人の夫含めた二人の男性を誘惑するように遊ぶシークエンスとなっている。
マウロ・ボロニーニ『市民気質』
運転中、事故に遭遇した主人公は怪我をした男性を乗せ、クラクションを鳴らし爆走し続ける。しかし、主人公が向かっていたのは病院ではなく自分の仕事場であり、怪我人を道に放り出し仕事場に入る。怪我人を乗せたのは、それを理由に道を空けさせ早く着きたかっただけだと言うことが明らかになる。主人公が怪我人を自分の車に乗せた時、「それこそが市民精神だ!」と言われる。今の市民精神は自分よりも他者を優先し助けることではなく、他者を犠牲にしてでも仕事を優先することだと言うような終わり方をする。 爆走する車を映すショットの反復的な連鎖、意識が維持できず同じセリフを反復する男という、反復によって加速するスピードを市民精神という言葉の意味を反転させるだけのプロットで挟み込んだような凄まじい速度を持つ短編。
ピエル・パオロ・パゾリーニ『月から見た地球』
妻を失った父子が新しい妻を探し続け、そして容姿が良く、初対面で結婚を受け入れてくれる女性を見つける。その女性は耳が聞こえず、相手の求める言葉を発し、求められたもの(セックスと家事)を提供する。貧しい家に住んでいた父子は、その女性を見せ物にした詐欺によって金を稼ぎ、より大きい家に住もうとする。詐欺は失敗し女性は死ぬが、帰宅すると幽霊のような形で死んだまま存在していて、引き続きセックスと家事が提供されることがわかり、貧しい家で父子は幸せに暮らす。最後に、死んでいても生きていても同じ、というような言葉が置かれる。 父子にとって妻は容姿が良ければ誰でもよく、かつ二人にとって幸せな家庭=セックスと家事の提供される家庭なので、そもそも容姿を保っていてそれらを提供する存在であれば、誰でも良いだけでなく死んでても生きてても良いというオチがつく話。 『アッカトーネ』『マンマ・ローマ』とは貧困層がそう運命付けられているという点で共通する。上を目指そうとした時にそれを阻む運命自体のような存在、『マンマ・ローマ』でいう元夫はここでは謎の二人組の観光客になっている。話の内容としても、明確な因果を剥ぎ取られた=おとぎ話化された『アッカトーネ』という感覚。 月からみればこの作品は無名な作家のとある映画だが、ここは地球なのでこれはパゾリーニによる「月から見た地球」というおとぎ話だ、というような導入文に表れるように、これは匿名的であり記名的な地球の家庭についての物語となっている。
フランコ・ロッシ『シチリア娘』
おそらく通りがかった誰にでも声をかけているだろう男の思わせぶりなサインを、結婚しようくらいの重さのものだと勘違いした主人公が、思い悩んだ末その男に惚れ切り会いにいくがその男は主人公のことを覚えていなかった。主人公は泥人形をつかってその男を呪う。それを見た父親が主人公に何が起きたかを問い詰める。父親が過剰に報復を行うことを知っている主人公は、父親が勝手にやったことだと言えるように、父親の詰問に対して言わされたという体にしつつ、自発的に男のやったこととその名前を伝える。それを聞いた父親はその男の親族を皆殺しにする。 魔女という前提を考えれば、人形への呪いがその呪いの性質通り自分を介さずに実現され、それが想像以上に苛烈な結果を生んだ話になる。 受け止め方の決定的な違いが大殺戮に転換される過程が、コミカルかつ一瞬で描かれる。主人公、父親共に自身の主観を絶対視しており、伝え手とのコミュニケーションを一切行わない。そのような人が魔力=軍事権限を握った結果、行為に対して反射的に、かつ感情的な判断の元必要以上の暴力が振るわれる。権力による不条理な暴力が一瞬で駆け抜けていくため、行われることの恐ろしさにも関わらず反射的に笑ったまま終わるような感覚の残る短編。
ヴィットリオ・デ・シーカ『またもやいつも通りの夜』
繰り返される仕事中心の生活により、出会った時の男性的なロマンティックさを失った夫に対して、妄想の中で、過去の夫の姿をファンタジー化し、今の夫を糾弾する妻の話。妻の妄想の中で男はクリント・イーストウッド、映画的な男性であり、男のロマンティックな振る舞いはクリント・イーストウッドの演じた役柄のオマージュによって表現される。そして、妻が妄想の中で夫を糾弾する時もまた、そのオマージュとなっている。妄想が進む中で過去のロマンティックだった夫は今の疲れ果てた男に変わっていく、クリント・イーストウッドが段々と女性的な行動をするようになっていく。代わりに、妻はクリント・イーストウッドのようなスターへと変化していく。それに従い、妄想シーンの演出も豪華で規模の大きいものになっていく。毎日の変化しない繰り返しと同様、妻も変わらず夫を愛しているというオチがつく。夫は繰り返しによって消耗し現実世界において変化していくが、妻は現実世界においては変化しない。代わりに妄想、理想世界へと乖離していく。