消費される魔法の終焉 / なぜフラハティか ー オタール・イオセリアーニ『そして光ありき』


オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1989年作『そして光ありき(Et la lumière fut)』について。

あらすじ

おそらくイオセリアーニが作り上げたものであろう集落があり、そこでは雨乞いをすれば豪雨が訪れ、切り落とされた首を繋げれば人が生き返るなど、魔法的な出来事が日常的に起こっている。それに対して集落に住む人々は人間的に描かれていて、一日サボって寝てる男もいれば男を巡って殴り合いの喧嘩をしたり、儀式の結果女性を追い出したことに対して儀式の実行者が泣いたりする。集落では電話の代わりに太鼓の音で会話するが、大声の噂話のように聞きつけた野次馬が集まってくる。

周囲には既に近代化された街が広がっていて、集落だけが孤立して古くからの暮らしを守っているように見える。その歴史は巨大な木々に重ねられる。集落の暮らしと並行に、伐採者によって切り落とされ輸出されていく様が描かれるが、木々は巨大さに対して非常に脆く崩れていく。巨大な木々は集落の近代化に対する脆さをも象徴する。

集落には外部から車が訪れる。集落の人々が外部に惹かれるのに対して、集落の指導者達はそれを抑圧し、外部の全てを排除することによって集落を維持する。結果、集落で伐採が行われたこと、取り消すことのできない外部の跡が残ったことによって集落を去ることを決める。集落の外に向かおうとする動きを象徴するのが、集落の夫に満足できず出ていく女性となっているが、去った集落の人々が外部の生活に適合していくのに対して、彼女は外部に適合できずホームレスのように暮らしている。そして集落に戻るが、集落が既に消え去っていることを知る。外部を拒み続けた人物が外部に適合し、惹かれていた人物が実際は集落を必要していたというオチとなっている。そして、外部に適合した人々にとって木像は雨を降らすものではなく、商品となっている。

何故フラハティか

抜粋したセリフを中間字幕で表示しその他は字幕をつけないというサイレント映画のような形式になっており、明確にフラハティのパロディを行っている作品となっている。その中でも、集落の人々の作為的な演出、巨木の撮り方、ある集落の終わりというストーリーライン、形式など『モアナ』のサウンド付きバージョンと非常に共通する部分が多く、明確にフラハティのパロディをしているように感じる。

フラハティはグローバリゼーションによって終わりゆく生活と、それに歯向かうような精神性を撮っていた監督のように思う。イオセリアーニの他の作品では、同質的なコミュニティが否定的に、多様な人々が歪にでも共存するコミュニティが肯定的に撮られていることが多いが、それで言うと劇中の集落は否定されるものであり、集落の外部が肯定されるものとなる。ラストの街で集落の人々が合流する様は非常に美しく見える。同時に集落でしか生きられない人々も描かれる。集落での暮らしを理想化することもなく、その否定的な面も描かれている。そして、集落の人々は戯画化されており、悲劇的に見えないようになっている。

集落と街、人々全てが等価に描かれている。おそらくそれは集落の外部の人々もまた、かつては集落の人々であり近代化させられた人々だからだろう。ラスト、集落の人々が街で商品として木像を売るシーンでは、集落の生活への郷愁を感じると同時に、街での暮らしが美しく見える。ラストは、集落を失った人々が街で共存するという理想世界を描いたものになっているのだろうと思う。

否定的に撮られているものの一つとして森林伐採がある。集落の人々は去る時に、集落が燃え続ける呪いをかける。それは伐採による森林火災を指している。もう一つ否定的に撮られているのは、バカンスをする白人家族となっている。集落が燃える様をスペクタクルのように眺めるが、その姿はこの映画の観客にも重ねられる。これはアフリカの人々ではなくヨーロッパの人々に向けて撮られた作品となっている。集落の喪失をもたらした存在であると同時に、その喪失をエモーショナルなものとして消費してしまう存在こそを批判した映画のように感じる。観客だけでなく、フラハティもまたそういう存在だからこそ、この映画は彼の映画のパロディとなっているんだろう。