さらば、荒野よ ー オタール・イオセリアーニ『素敵な歌と舟はゆく』


オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1999年作『素敵な歌と舟はゆく(Adieu, plancher des vaches !)』について。

さらば、荒野よ

蝶採り』と同じく、異文化、異なる階級間での関係と断絶についての映画となっているように感じる。豪邸とその近くの街の二つが舞台となっており、体制、監視者であり規律、排除する存在として街には警察が、豪邸には主人公の母親が存在している。

主人公は豪邸の息子で、家では上流階級的な身だしなみ、振る舞いを母親から強制されているが、街では貧困層を演じ、ホームレスや犯罪者とのネットワークを築いている。それと対置されるのが労働者の男で、彼は街に出る時は富裕層を演じる。二人とも、外部から街に訪れる存在となっている。

さらに、街はホームレスや犯罪者達の暮らす貧困層の世界、船の仲介業を営む男や古物商の夫婦の富裕層の世界、そしてレストランやバー、そこに訪れる人々、その他街を歩く人々の住むいわば中間層の世界の三つに分けられる。これら交わらない三つの世界が、豪邸の人々と労働者の男の訪れ、街から豪邸への移動をきっかけとして関わり合い、時に世界を跨いだ関係性が築き上げられる。

舞台間を繋ぐ装置、世界を跨いだ関係性を築くきっかけとなる装置としてヘリや船、バイクなどの交通手段が重要なものとしてある。一つが豪邸と街を繋ぐ主人公の船に対して、連れ込み宿としての機能しか持たない、移動することのない船が対置されている。それを利用するのは船の仲介業を営む富裕層の男と、労働者の男であり、特に富裕層の男と主人公の母親は船を移動手段としてではなく商品として見ている。登場人物達はそれぞれの移動手段に別の人物を乗せ、それが新たな関係性が生まれるきっかけとなる。それに対して、主人公の母親は自身の移動手段であるヘリコプターに他者を乗せない。彼女の服に船のペンキがつくシーンがあるが、それは船を移動手段でなく商品として扱うことへの船からの復讐のように見える。

主人公とホームレス達との関係性は街では警察から、豪邸では母親から監視される。結果、警察によってその関係性は引き裂かれる。主人公の連れてきたホームレスの男と主人公の父親、豪邸の召使いとバーの女性の関係性は主人公の母親の監視下では成立できないものとなっている。この映画において、移動によって築きかれる舞台間、街の世界間での関係性は体制、監視者の存在によって不可能なものとなっている。だからこそ、原題は『さらば、荒野よ』となっていて、海や崖へ逃げ出すことで、街や豪邸では不可能だった関係性が結ばれて終わる。船やバイクなどの移動手段は異なる世界に住む人々の間の関係を築くが、体制下でその関係性は存続できない。そのために、移動手段は体制から逃亡するための手段へと変換される。それら人々がいなくなった結果、豪邸は富裕層の人々だけのものになり、街では世界間での交流が生まれなくなる。

蝶採り』では異文化の共存したコミュニティが新しい場所に向かおうとするも、分断、その結果によるテロによって殺されてしまう。それはあたかも、この世界にはもう共存を可能にする場所が残されていないかのような感覚を残す。この映画において、異なる世界間での関係性を築いた人々は逃亡に成功する。しかし、逃亡先は海、崖という人が生きることのできない場所となっている。それは、共存が可能な場所がどこかにあるかもしれないという希望のようにも、地上にそのような場所はないということを示しているようにも見える。

感想

非常に緻密に組み上げられたパズルのような映画。所与の関係性が出来事によって段々と変化していくという内容で、それがルビッチやウェス・アンダーソンのような軽く心地よいリズムと展開によって描かれている。イオセリアーニの映画の特徴として、あらゆる出来事や人物を等しく扱うこと、それに由来して作品内に強弱がないことが挙げられるように感じる。関係性というか、特異な映画内世界が段々と明らかになっていくところまでは楽しかったが、以降の映画内世界が段々と変化していくところが長く、軽く心地よいリズムを持ちつつも強弱がないため、単調に感じ途中で飽きてしまった。また、特にパリ移住以降のイオセリアーニの映画にはフィクショナルな映画内世界が設定されることが多く、その中で登場人物は戯画的でコメディ的に動き、神の視点から淡々と描かれている。それも単調さを感じる理由なのかもしれない。ただ、単調さこそがイオセリアーニの作家性が洗練された結果であるようにも思う。