性愛の抑圧、フィクションによる解放 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『デカメロン』

ボッカチオ『デカメロン』を下敷きにした生の三部作一作目。

時代は原作と変わらず14世紀のまま、舞台はナポリに変更されている。ナポリは『愛の集会』で描かれたように、貧困層が多くを占めイタリア・カトリック社会によって搾取されてきた土地だ。『愛の集会』では彼らがカトリック社会による性の抑圧から解放されることを望む姿が描かれるが、この映画におけるナポリの人々もまた、カトリック教会によって搾取され性を抑圧されている。この映画は『愛の集会』において描かれた現実のナポリの人々を、時代を14世紀に移し現実ではなくフィクションの中で語り直そうとしたものだと考えられる。時代設定としてはジョットの生きた時代、つまりゴシック後期であるため、ルネサンス・メディチ家以前、商人が勃興しつつもまだ教会に匹敵するほどの力を持ってはいなかったあたりになるんだろう。

複数の物語によって構成された映画。前半はその14世紀ナポリにおけるエピソードであり、ジョットの登場を境にして後半はそのジョットの想像した物語へと切り替わっていると考えるのが自然に思う。ジョットはボッカチオの同時代の画家であり、ナポリの教会でフレスコ画を描くことを依頼され、アシスタントや貧困層の人々を手本に彼らの背景にある物語を想像しながら描き込んでいく。後半の語り手であるジョットはパゾリーニによって演じられており、それはこれら物語がパゾリーニの想像したものであるというメタ的な言及となっている。

また、パゾリーニの映画において常に、ニネット・ダヴォリの演じる役柄には無垢・無知で欲望に忠実な人物というようなイメージが持たされ、フランコ・チッティには悪魔的で、社会の歪みを全て背負わされた人物というようなイメージが持たされている。『デカメロン』においてもそれは変わらず、二人のエピソードはジョット=パゾリーニの想像した物語とはまた別枠でおかれており、フランコ・チッティのエピソードに関してはジョット=パゾリーニと同じくこの映画における現実での出来事となっている。

14世紀ナポリはカトリック教会による統治下にあり、姦淫の禁止が市井の人々に課されている。教会の人々、商人の中でも資産家となった人々など、権力者たちはそれを守ろうとしない。そして、市井の人々もまたそれを破ろうとする。『デカメロン』の中心となっているのは、それら市井の人々と権力者の間の関係性、そして姦淫の禁止によって抑圧された欲望である。

冒頭、フランコ・チッティ演じる男が死体のようなものを運ぶ姿が映される。そこから一つ目の物語へと切り替わる。ニネット・ダヴォリ演じる商人の息子である主人公がある土地に訪れる。その土地の資産家女性は、訪れた裕福な人々に対して自分が腹違いの妹だと信じ込ませ、肥溜めに落として持ち物を全て奪うという詐欺を行なっている。主人公はそれによって一文なしで糞まみれという状態にまで転落する。そこで、盗賊に出会い埋葬されてすぐの司祭の棺から装飾品を奪うことに協力させられるが、一番価値のある指輪を独り占めしようとしたことによって、司祭の棺の中に閉じ込められる。商人の息子として金を持っていた主人公は、肥溜めに落とされたことで乞食へと転落し、それによって棺の中に落とされる。それは聖人のための棺であり、いわば主人公は死者であり聖人となる。そして、乞食のような身なりで棺から死者として現れたことによって他の盗賊を驚かせることができ、主人公は指輪を手に入れて喜びながら去っていく。パゾリーニの映画ではニネット・ダヴォリは欲望に忠実で人や価値観をそのまま信じてしまう、純粋無垢な男を演じることが多く、この物語はそれによって人々から騙され、商人の息子から乞食、そして聖人へと変化するという物語になっている。

二話目は修道院に関する物語となっている。労働者である主人公は、美女が多く若い男性が入ることを禁じられている修道院の存在を知り、聾で話すこともできない男を演じることでその修道院に入れてもらえ、若い男と触れることのない修道女達に求められるのではないかと企む。修道院において性行は罪となるが、修道女達は話すことができないならバレることはないと主人公を求めるようになり、その修道女達の様子を知った修道院長はそれを禁じるのではなく主人公を自分のものとして独占する。主人公は修道女達、そして修道院長によって性的に過剰に搾取されるような状態になり不満を口にする。主人公が話せることに気づいた修道院長は自分が罪を犯していることを隠すため、主人公に奇跡が起き話すことができるようになったと吹聴する。この物語の前に、修道女と修道院長両方が恋人を呼び込んでいて、それが互いにバレたためにその修道院では恋人を持つことが許可されるようになったという小話が語られる。カトリックによって欲望を抑圧され抜け道を見つけようとする人々、それを自分だけ叶え、それを隠すことができる権力者という、この作品の主軸になるテーマが表れた物語となっている。そして一話目と同じく、誰もが宗教・規範よりも自身の欲望を叶えることを優先している。

三話目は浮気中に帰ってきた夫にかめの掃除を任せ、その間に浮気相手との性行の続きを行うという、かめと女性器が重ねられる物語となっている。二話目と三話目はどちらもナポリの道端で市民によって語られたものであることが明示されるが、その語り手と共に、冒頭に表れたフランコ・チッティ演じる男が現れる。つまり、四話目は物語ではなく、現実の話となっている。

四話目では、フランコ・チッティ演じる男がスリを行い、少年を買うところで始まる。男は資産家の元、盗みや殺しを行い、そしてレイプや少年愛などあらゆる犯罪に手を染めてきた、悪魔のような存在だったことが明らかになる。それら犯罪が明らかになりつつあったため、その資産家と取引をしている他国の商人の元に向かうが、そこで男は自分に死が近づいていることを知る。商人は犯罪者を匿っていたことが明らかになれば教会から、男を死なせれば資産家から追い込まれることになる。それに対して、男は司祭を呼び懺悔する。しかしその内容は犯罪の事実を隠したもので、司祭はそれを見て男が聖人だと確信する。そして、男は亡くなった後聖人として棺に入れられ埋葬される。悪魔が聖人として教会に埋葬される。いわば教会に聖人として埋葬されている人々が悪魔であると指摘するような物語となっている。これは一話目と対応関係にあり、一話目は無垢な男が受動的に聖人の棺に入れられる話でありそこから財宝を得て抜け出すが、この物語は悪魔のような男が能動的に聖人の棺に入れられる話であり、悪魔である男は聖人として人々の崇拝を得ることになる。

ここで、パゾリーニ演じるジョットが現れ、アシスタントや着いてきた貧困層の人々を見ながらフラスコ画を書き上げていく。以降は、ジョットが想像したそれら人々の物語となっている。

五話目、隠れて恋人と寝ていた娘が両親に見つかってしまう。婚前交渉は禁止されており両親はショックを受けるが、その恋人が富裕層の息子であることに気づき、そのまま二人を結婚させる。

六話目も五話目と同じく婚前交渉についての物語だが、逆に資産家の女性と資産を持たない男性間についてであり、五話目とは対照的に悲劇的な結末を迎える。資産家の娘である主人公は許可がないとその屋敷の外に出ることができない、囚われたような生活を送っている。そしてその主人公は屋敷に仕える奉公人と恋に落ちるが、それを知った主人公の兄弟達は家族の名誉を保つために隠れてその奉公人を殺してしまう。幽霊として現れた恋人によってその死を知った主人公は、その死体を見つけ出し頭部を切断し、鉢植えの中に隠す。主人公はその頭部の入った鉢植えを、住む部屋で唯一光の差し込む場所に置く。それはあたかも、主人公にとっての部屋の外、光の下に出るという希望が恋人の死によって閉じられてしまったように感じられる。この物語において、女性である主人公は外に出れず関係を結ぶことも禁止されているのに対して、男性である兄弟達は自由に外にでて、自由にセックスをする。『愛の集会』でイタリアにおいて女性は婚前も結婚後も家に閉じ込められていることが語られるが、この物語はそれをそのまま反映したような物語となっている。

七話目は貧困層の夫婦が魔法を使えるという司祭を家に泊める話となっている。司祭は美人と噂される妻が目当てであるように見える。司祭は自分が馬を人間に、人間を馬に変えることができると二人に話す。それを聞いた妻は、生活を楽にするため自分を昼間は馬に変えて荷物を運び、夜は人間として夫の隣にいれるようにすることを提案する。司祭は本当は魔法を使えないが、そのための儀式という体で夫の前で妻の服を脱がし犯してしまう。司祭は夫に、邪魔をしたら魔法は失敗すると前置きしており、夫がそれを止めようとしたために魔法が失敗したと言い逃れする。

最終話である八話目はこの映画のクライマックスとなっている。主人公は恋人と何度もセックスをしているが、それは罪とされておりそれによって地獄に落ちることを恐れている。主人公の友人は不倫相手と何度もセックスしており、それによって死んでしまう。ここで友人が見る最後の審判のヴィジョンはジョットによる『最後の審判』を模したものとなっている。二人は互いに、死んだら幽霊として現れて地獄に行ったか天国に行ったかを相手に報告することを約束していた。主人公の元に現れた友人の幽霊は、自分が地獄に行かなかったこと、神に姦淫が罪ではないのかと聞くと、それは些細な罪だと答えられたことを伝える。恋人とのセックスが罪ではなかったことを知った主人公は、恋人の元へと走っていく。

これら物語において、市井の人々は教会によって姦淫を禁止されており、欲望を抑圧されている。それに従うのはそれを破れば地獄に落ちると言われているからだが、その教会に聖人として横たわっているのは悪魔であり、犯罪者である。市井の人々に対して、聖職者、資産家などの権力者は思うように欲望を叶え、搾取や殺人を行なったとしてもそこから逃れることができ、罰を受けることはない。この映画は悪魔である権力者達によって性を抑圧された人々についての物語であり、彼らは映画的な策略、偶然によって欲望を叶えていく。そして、最終話において、そもそも姦淫を行なっても地獄に落ちないこと、そもそもそれは罪ではないことが神によって語られる。それはいわば、人々をその課された規範、その抑圧から解放するものとなっている。その解放はジョット=パゾリーニによって想像されたフィクションの中で起こされたものであり、彼はそれを教会の絵を描きながら行なっている。彼は描くことを通して教会からの人々の解放を夢想するが、描かれた絵は教会の権威を強化するものになるという矛盾した状態にある。これはパゾリーニの映画が資本家や権力者を批判し、貧困層にある人々への救いを望むものでありながらも、映画自体は資本家達の資本を増やすものであるという矛盾を反映したものでもあるように感じる。最後のジョット=パゾリーニによる「夢の方が素晴らしいのになぜ絵を完成させないといけないのだろう?」というセリフはそれに対する諦念のようにも響く。しかし、それでもジョット=パゾリーニはフィクションを作り続ける。

パゾリーニの初期の作品である『アッカトーネ』『マンマ・ローマ』など初期の作品は、イタリア社会外部にある人々や貧困層の人々の現状をネオレアリズモをベースにドキュメンタリー的に描くと同時に、それら人々から現代のキリストを作り出そうとしてきた作品のように感じられる。しかし、どちらの作品においてもキリストたる人物は社会によって殺されてしまう。そして『奇跡の丘』はそこから時代を遡り、同じ手法でキリストが生まれた瞬間を描いたものとなっている。キリストの生まれた過去と、生まれない現在にどういう違いがあるのか、その間に横たわる歴史、それによって作り上げられてきた社会構造をインタビューによって炙り出そうとしたのが『愛の集会』であり、そこでは現在のイタリア社会の問題の根底にあるのはカトリック社会、それによる性愛の抑圧だと言うことが明らかになる。だからこそ、パゾリーニは『テオレマ』において富裕層家族の性を解放する。しかし、その解放された欲望は行き先を見つけられない。そこでキリストとなった召使いは社会が行き着いた先であるような荒地で涙を流す。『アポロンの地獄』も『奇跡の丘』と同じように過去へと遡るが、そこで発見されるのは過去から現在へと続く西洋社会の暴力の歴史だ。『豚小屋』ではジャン=ピエール・レオー演じる資本家の息子がキリストとなる。しかし、それは新たな資本家によって隠される。これら作品で描かれてきた、キリストの生まれない、荒地へと向かうしかない現代社会、その終わりの感覚は『王女メディア』ラストの魔女の断末魔と共に反響しあう。パゾリーニの映画において人々は救われることがない。それは現実を反映したものだからだ。『デカメロン』は過去を描くことによって、再び現代へと続く普遍的な構造、歴史を描き出そうとした作品であるように感じる。しかし、この作品において遂に人々の解放が描かれる。それが可能なのはそれがフィクションの中だからだろう。

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