カトリック社会による規範、その抑圧 ー ピエール・パオロ・パゾリーニ『愛の集会』

ピエール・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)監督による1965年作『愛の集会(Love Meetings)』について。

この映画が公開された1965年時点、イタリアでは離婚が法的に認められておらず(制約の元認められるのが1970年)、1958年のメルリン法によって売春婦に対する搾取が犯罪になり、娼館が廃止されている。

イタリア社会はカトリック教会の影響を強く受けており、結婚する女性は処女でないといけない、結婚後は家の中にいて一人で外に出てはいけないといった、女性の自立を認めない社会通念、規範が存在する。離婚もまた、教会婚姻と矛盾するため認められない。その社会の在り方は、イタリア男性の臆病、嫉妬深いという気質と相互強化し合うものである。

ジュゼッペ・ウンガリッティにより、そもそも人間は自然状態においては誰しもが異常であることが語られる。規範を作るということはいわばその自然に反することであり、その規範はある人にとっては異常さをも包括するもの、ある人にとっては異常さを抑圧するするものとなる。

ここで、イタリアにおける規範は、処女である女性と結婚し、家庭を築きあげることである。そして、その規範は家庭(個人ではなく)を最小単位として組み上げられた社会制度にとって不可欠なものである。この規範は、男性の異常さ、つまり性には寛容であり、女性の性には抑圧的である。そして、同性愛者はその規範の外部の存在となる。その規範は人々に内在化されており、その結果として同性愛者に対する嫌悪的な態度がある。

社会が女性の性を抑圧することによって成り立っているからこそ、その社会の恩恵を受けている人々(プチブルジョワ)は自己防衛のため、性の話題を自己をタブーとしてそれに関して無知のように振る舞う。そして、家庭は子供を同じように教育する機能を持ち、その規範を内在化させる。つまり、保守的な形での家庭は社会を成り立たせると同時に強化するものでもある。だからこそ、この映画は子供達が性について知らない、そして女性達が性について子供と話し合いたいが、それが困難であると話すことから始まる。

抑圧された性に関するインタビューは、その人々が内在化している規範を浮かび上がらせ、その規範の上に成り立つ社会構造をも明らかにすることになる。さらに、それら規範や社会構造は農業社会に適したものであり、農業から工業に移りつつある、戦後の経済発展の中にあるイタリア社会においては古い、実態に合わないものとなりつつある。

法に関していえば、問題となるのは離婚の禁止、そして娼館の廃止である。離婚が認められていないからこそ、夫が妻を殺す、妻が夫を殺すという問題が発生しつつある。しかし、離婚を認めることは宗教的な矛盾だけでなく、女性の自由を認めることになり社会構造を脅かすものともなる。そしてそれは、女性の自由を認めてしまうと今までのような家庭関係を維持できないかもしれないという男性達の臆病さ、嫉妬深さを表すものでもある。

好色家になるか良い父親になるかの選択肢が認められている、異常を認可されているプチブル男性達が性についての質問に対して、無知を振る舞い社会通念を言うだけなのに対して、貧困地域にある人々、特に搾取下にあるナポリの労働者達は時に自己検閲が必要なほど率直に自分の意見を言う。

メリヤス法によって娼館が廃止された結果、売春婦は路上で働くことになる。娼館の提供する検疫がなくなったために、性病を持つ売春婦も路上に立つようになる。そして、搾取されているナポリの労働者達は、安く買うことのできる路上の売春婦達を買うことになり、性病が蔓延してしまっている。そもそも、彼らが女性を買う必要に迫られるの原因は女性を自立させない、外に出させない社会構造にあり、女性とのデートは出来ても外を一緒に散歩するだけとなっている。いわば、娼館はその社会構造の結果生まれた男性の性の抑圧を吸収する機能、結婚前に経験を積む機能を担っていたことが明らかになる。女性の労働が女性の自立に繋がることが話されるが、労働者が搾取されるナポリにおいてそれは不可能である。

パゾリーニは、その労働者達の欲求の発露に変革の可能性を見る。性について思考することは愛について思考することでもある。愛を愛であるという言語上の意味としか把握していない若い二人の婚約者達は、その無知によって過去の善悪を忘却し、父親や母親のようになろうとすることでそれらを反復するようになる。そのような人々が、愛を自覚的に愛だと把握するようになることを祈り、この映画は終わる。

アッカトーネ』『マンマ・ローマ』は構造によって乞食、売春婦であることを決定づけられた貧困層の人々の話であることを考えれば、この映画はその構造を明らかにし、さらにそれを崩壊させる方法を模索したもののように思える。そして、同時期に撮られた『奇跡の丘』はキリストが語られ神話されてきた2000年の歴史、その中に潜む神秘を描こうとしたもので、その後の『アポロンの地獄』は逆にその人類の歴史の中に繰り返されてきた、そしてこれからも繰り返されるだろう闇を描き出したものだ。これらの二作品は、アッカトーネやマンマ・ローマを貧困層へと決定する、今の社会構造へと続く歴史を描き出そうとしているという点で共通する。そして、その神秘から闇への転換点にこの映画があるんだろうと思う。

アポロンの地獄』は自伝であり、オイディプスはパゾリーニ自身を反映したものらしい。であれば、パゾリーニは自身を歴史の闇の目撃者であり、同時に父(=構造)殺しとして役割づけているように感じられる。しかし、『アポロンの地獄』ではその父殺しは歴史の中で繰り返される暴力の一部でしかなく、それによって何も変わらないことも描かれる。オイディプスが父殺しと同時に母親を犯してしまうことも、この映画と合わせて考えるべきことのように思う。

『テオレマ』ではブルジョワ家庭が性に目覚めることによって空虚を彷徨うことになる。そして召使いが新たなキリストとなり、それら家族の墓場のような場所で涙を流す。それはこの映画の最後におかれた祈りを実現させたものであり、今に続く歴史、その結果生まれた社会構造の崩壊を描こうとしたもののように思える。

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