アメリカ文化、工業化とイタリア社会『イタリア式奇想曲』

工業化が進み、イギリスを経由してアメリカ文化が若者を中心に受容された当時のイタリア社会についてのオムニバス。原題は「わがままなイタリア資質」みたいな意味になるんだろうか。パゾリーニの短編が非常に真っ直ぐに美しく、またトトの最後の出演作でもあるらしい。

マリオ・モニチェッリ『子守』

子守が子供達の読んでいたコミックを悪魔的、犯罪的であるという理由で取り上げ人食い鬼の童話を読み聞かせるが、童話の方が悪魔的、犯罪的で、その恐ろしさに子供達が泣いてしまうという作品。

ステーノ『日曜日の怪物』

トト演じる女性を欲望的に見る老人が主人公で、女性は主人公を選ばず若者は選ぶ。若い男性への嫉妬、そこからくる嫌悪がその若者達のヒッピー的な姿への嫌悪、そしてそれが男性の長髪への嫌悪へと繋がっていく。家をめちゃくちゃにした若者達に対して、その若者の一人が持っていたコミックのディアボリック(誰にでも変装できるマスクを持ち、弱いものを助けるためなら法も犯す的なダークヒーローものらしい)に着想を受け復讐することを誓う。復讐の方法は、変装して若者達を家に誘い眠らせその髪を刈り上げることであり、坊主にされた若者達は見た目の恥ずかしさに外に出れなくなる。主人公は、自分の実現できない欲望を実現している人達に対して、自分と同じようにそれをできないようにする。結果警官に捕まるが、長髪になっていた警官の息子を坊主にしたことにより、警官お抱えのエージェントとして、銃の代わりに髪切り鋏を携えたカウボーイのようになって終わる。肥大化した嫌悪により行った暴力的な行為を肯定されることで正義だと確信し更に欲望のままエスカレートさせていくという、『ジョーカー』に似た話。全体主義下における理想的な市民の性質を持った人物についての話でもあるという意味で、キェシロフスキの『ある夜警の視点から』ともかなり近い。

マウロ・ボロニーニ『どうして?』

大渋滞、他の車に無理やり追い抜かされる夫の運転に対して怒った妻が、夫にも無理やり他の車を無理やり抜くように強いる。夫がそれを実行した結果、後ろの車が事故を起こす。怒って夫婦の元に来たその車の運転手をレンチでなんとかするように妻が夫に言う。妻は脅して静かにさせることを意図していたようだが、夫はレンチで運転を殴り、殺してしまう。自分の欲求が実現されることだけを考えて指示する妻、妻の期待する結果を理解しないまま従い実行する夫という二つが組み合わさった結果悲惨な事故に繋がる。理性より欲求を優先する妻が絶対的な主導権を持つが実際に何かをするのは夫というイタリア家庭の性質を描いた作品のように思う。パゾリーニの『愛の集会』ではイタリア家庭がこのような性質を持ったのは、カトリック社会であり女性が家の外に出ることが許されず、女性が家庭内、男性が家庭外のことを行うという家庭形態が強いられてきたからだということが描かれている。

ピエル・パオロ・パゾリーニ『雲って何?』

操り人形に命を吹き込むことができる清掃夫がおり、清掃夫達はその操り人形を使った演劇で生計を立てている。上演されているのはシェイクスピアのオセロで、新しく拾われてきたニネット・ダヴォリがオセロ、それを貶めようとするイアゴーはトトが演じている。命を得たばかりのオセロ役の操り人形は、操られ演じている自分と本来の自分の区別がついておらず、舞台に出ると自分、そして舞台裏では優しいイアゴー役の操り人形がこんな嫌な人間になってしまうことを嘆く。それは自分が操られていることを自覚していない人物が自分の行動に自分で驚いていることことに加えて、生まれたばかりの子供にとって、シェイクスピアの登場人物達が嫌な人間に感じられるという意味にもなっている。シェイクスピアは近世以降普遍的な物語として演じられてきたものであり、人間は社会に適合する過程で、生まれたばかりの自分が見れば驚くような嫌な人間に無自覚的に変えられてしまっている、そしてそれが人間に普遍的なことだという意味だと感じる。 その行動の不快さに怒った観客達はオセロ、イアゴー役の操り人形を殺そうとする。操り糸が切られてしまった二人は動くことができなくなる。清掃夫は嘆きながら二人をゴミ処理場へと廃棄する。そこで、オセロ役の操り人形は初めて劇場の外に出て、初めて空を見る。その「雲って何?」という質問に対して、イアゴー役の操り人形は「悲痛で美しい創造物だ」と答える。人間が神の創造物であるなら、雲もそうだ。人間は自身の作り出した社会で醜く変容され生きていく、人形達が劇場の外にでることができないのと同様に、社会の外(=天上)を望んでもそこに出ることはできない。だからこそ雲は悲痛で美しいという意味だととった。

フランコ・ロッシ、ピーノ・ザック『海外出張』

ピーノ・ザックのアニメーションとフランコ・ロッシの実写映像が組み合わさったもの。女優が大使として友好関係を結ぶためにアフリカの国に訪れスピーチをするが、アフリカについて何も知らず、気づかずアフリカの違う国向けのスピーチを読んでしまう。女優の周囲にいる大臣達は、その国の人々がスピーチの内容を理解しておらず間違いに気づかないことを望むが、気づかれボコボコに追い返され、友好関係を結ぶことに失敗する。女優やその周囲の人々の無理解や下に見た姿勢に対して、女優のために現れたその国の人々は多様であることが描かれている。対等に接していれば関係性を結べていたようにも見えるが、大臣達は地図の上にある一つの国という認識を変えず、その国の上にバツをつける。

マウロ・ボロニーニ『嫉妬深い女』

夫が実は若者文化(ヒッピー)に染まっていて他の女性と浮気していのではないかと疑う妻について。妻は夫と愛し合っている自分と浮気されている自分の間で分裂していく。妻は何度もその答えを確かめようとするが、夫はその疑問に対して決して答えない、そして質問することを禁止するようになる。「家には真実がある」という夫に対して、妻は家に真実を見つけられない。疑問をかわされ続けた妻はよりパラノイアックになり、夫を尾行し真実を突き詰めようとする。ホテルに入る夫の姿を目撃し、その階段で銃を撃ち放つ。部屋から出てきた夫は下着姿だったが、それは仕立て屋にいたからだった。浮気しているのかどうかという疑問は最後に至っても解消されない。階段のシーンは、同じくブルジョワ家庭に真実を見つけられなくなった女性についての映画である、ロッセリーニの『ヨーロッパ一九五一年』のオマージュとなっている。別の答えに至る『ヨーロッパ一九五一年』に対して、この映画はその問い自体が空虚であり、答えに至らない、今後も至らないだろう感覚を残して終わる。 夫のセリフ、動きが終始ぎこちなく、それが何か人工的で、何を秘めているのかわからない不気味さに繋がっている。妻が夫をわからないものとして認識する、踊りながら人に流されていくシーンでそれが特に際立っている。

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