フレームの外へ向かう運動 / 内からの祈り ー 山崎樹一郎『やまぶき』

冒頭、黒い画面にやまぶきの花が咲くように描かれる。その絵に重なるように山が映されるが、その山は開発されやまぶきは枯れている。劇中語られる通り、やまぶきは田舎にしか咲いていないような日陰でしか育たない花であり、一面砂と石の広がる、日光を遮るもののない開発された土地では育つことができない。警察官の父親と二人で暮らす女子高生、やまぶきもまた田舎の日陰でしか生きることのできない存在となっている。

舞台は岡山の田舎町であり、この映画のフレーミングは常にそれを表すように窮屈で狭い。そして、町の外で起きることは決してフレームの内には映されず、その外の話として登場人物から言及されるのみだ。いわば、この映画のフレームはこの町の比喩として機能している。そして、それは同時に日本という閉ざされた島国の比喩として捉えることもできるだろう。

やまぶきはそのフレームの中の、さらに日陰でしか生きることができない。だからこそ、やまぶきは町でサイレントスタンディングすることを選ぶ。それはやまぶきにとってそれはプラカードを通した無言の叫びであり、祈りであり、田舎の外、遠くにいる人々に届くことを望む。フレームの中でしか生きれないやまぶきは、その中で立ち、フレームの外に向けて無言で祈り続けることを選ぶ。

しかし、山は開発されやまぶきの育つことのできる環境は減っていく。そして、サイレントスタンディングを行うやまぶき達に対して、それを暴力的に糾弾する人々が現れる。フレームの内側は砂漠と暴力に埋められていく。ここで、やまぶきの亡くなった母親が戦場ジャーナリストで、トルコとシリア間の国境で戦争について知ろうとしていたことが明らかになる。戦争の行われている国境は砂漠のようになっている。そこに岡山にいるはずのやまぶきが現れる。そもそも、この映画はフレームの外を映さない。トルコとシリアの間のこの風景はサイレントスタンディングの行われている日差しの強い道路の心象風景、そして、開発・暴力の進んだ日本の未来の風景のように感じられる。そこに日陰はなく、やまぶきは育つことができず、死んでしまう。「銃口に花束を」というやまぶきのプラカード、そして他の人々によるサイレントスタンディングもまた、そこに向かっていく現状に対する抗議だ。

やまぶきの父親と母親は見かけ上は、典型的な右翼・左翼的な人物として描かれる。母親が他国の戦争を通して見ていたもの、知ろうとしていたものは日本の未来の姿ということになるだろう。そして父親はなぜやまぶきに自分で行動できるように準備すること、決めたことの責任を自分でとることを説くのか、それはやまぶきがこのままでは死んでしまうことを知っているからではないか。また、父親が何度も山を登る理由は、自分の好きなやまぶきが唯一育つ場所であり、そして彼があそこまで必死にやまぶきを掘り出そうとした理由は、それはその開発された山肌でやまぶきが枯れていくしかないことを知っていたからだろう。だからこそ、彼はやまぶきを庭に移植するが、そこでやまぶきは育たないのだ。同じように、やまぶきもまた、父親の下で生きることはできない。そして、その父親の行動は、もう一人の主人公であるチャンスに不条理として降り掛かってしまう。

やまぶきがフレーム内に立ち続ける存在だとすれば、チャンスとその家族はフレームの外へと飛び出していこうとする存在だ。チャンスは序盤、妻と子供のいる日本に住み続けたいと妻に答えた後、妻とともにフレームの外へと走り出す。走る姿を映すショットは段々と音が消えスローモーションになり、二人がこの映画の外へと走り去っていくような印象を残す。そして、社員になるように誘われた後、馬術場で馬に乗り走る時もまた、チャンスは馬と共にフレームの外へと走り去ろうとする。それはあたかも貧困にある移民という映画内の設定から望む家庭へと走り出していくように見える。

しかし、チャンス達のフレームの外への動きは、同じくフレームの外から投げ込まれたものによって折られてしまう。フレームの外からの落石により足を怪我し重機の運転が不可能になったことにより社員契約は取り消されてしまう。困窮したチャンスの元にさらに、窃盗団の大金が投げ込まれてくる。その大金は結果的にチャンスと、妻と子供との間に距離をつくってしまう。そして、チャンスはそれによって警察に逮捕されてしまう。警察から解放された後、チャンスとその家族が画面の中央に丸く身を見せ合うショットが象徴的に挟まれる。フレーム外に向かおうとしていたチャンスとその家族は、フレームの中、その小さな中央に押し込められてしまう。さらに、チャンスと妻は駆け落ちしていて、妻には他に夫がいたことが明らかになる。そして、その夫の車がフレームの外から入り込み、妻と子供はその夫の元へと帰ってしまう。妻の働く保育園の内部から窓の外にふと、車に向かう夫と妻の二つの傘が浮かぶ。チャンスは、フレームの中一人になってしまう。

そもそも、移民という”設定”、そしてその直接的な原因である父親の会社の倒産はチャンスのこれまでの人生にとって、フレームの外から投げ込まれたものだろう。チャンスは警官達に他の国によって作られた朝鮮南北の分断のために、なぜ韓国の人々が徴兵されないといけないのか疑問に思っていたと話す。朝鮮戦争、そしてそれによる南北の分断もまた、韓国というフレーム内に、その外から投げ込まれたものだ。

また、岩崩れの起きた直接的な理由はやまぶきの父親がやまぶきの木を掘り起こしたからだが、そもそもそれはチャンス達によって山が開発されてなければ起きなかったことである。そして山の開発はやまぶきの生きることのできる環境がなくなることにも繋がっている。ここで、山の開発はいわばフレームの外から投げ込まれる不条理を象徴したものとなっている。そして、それら不条理は国や企業によって指揮されたものだ。

ラスト、一人になったチャンスの元に、フレームの外から妻と子供が現れる。これまでのように不条理に投げ込まれたものではなく、二人は選んでフレームの中に入ってくる。チャンスは、馬の目の反射によって二人に気づく。そして、今度は自分ではなく子供を馬に乗せて走らせる。馬はフレームの外へと連れ出す存在であり、このラストシークエンスは彼らが、この映画で描かれた世界の外へといつか抜け出していけるだろうという希望を映したものだ。そして、それに続くエンドロールには暗闇の中に様々なやまぶきの花が映されていく。それはこれまで死んでいった人々による日陰からの祈りであり、サイレントスタンディングだろう。

この映画はセリフだけを追えば非常に典型的な人物、社会描写をした作品に見えるようになっている。ここで書いた他にもまだまだあるであろうモチーフや映像表現によって新たな見え方をするという構造になっている。それは、あたかもサイレントスタンディングにおけるプラカードのようで、この作品の表面だけを追って批判することは、やまぶき達のサイレントスタンディングに対して、その行動と書かれた文面だけを見て糾弾する人々と同じことだろう。『やまぶき』という映画は、それ自体がサイレントスタンディングであり、映画の外、つまり観客である我々に向けた祈りとなっている。それに対して想像しようとしなければならない。