「馬ではない」存在としてのロバ ー イエジー・スコリモフスキ『EO イーオー』


イエジー・スコリモフスキ(Jerzy Skolimowski)による 2022 年作『EO イーオー』について。

以下、ネタバレが含まれています。

 

 

「馬ではない」存在としてのロバ

冒頭、サーカス団で飼われるロバであるEOが、カサンドラと演目を行っているシーンは性的なものにも見えるように撮られている。その後に続く演目中にサーカステントの内側をカサンドラと共にぐるぐると回るEOのショットは、その後に続くサーカステントの外周を一人で回るカサンドラのショットと対応している。外側にはカサンドラの恋人がおり、EOはサーカステントの内側でしかカサンドラと二人になれない。EOとカサンドラの恋人の対比は動物愛護団体のトラックよって輸送されるショットにおいても象徴的であり、トラックのドアが閉められることでカサンドラとEOは隔てられ、離れていくトラックに連動するようにカサンドラにバイクが近づいて来る。バイクは隣に止まり、ドライバーのヘルメットが脱がれ、EOの代わりのように恋人の顔が現れる。

カサンドラの恋人と対応するモチーフとして存在するのが馬であり、ロバは「馬ではない」存在である。EOは輸送中の車の中から、草原を自由に駆け回る馬の姿を見る。馬はEOとは対照的に筋肉質で美しく、官能的に撮られる。新しい飼い主に従順なEOに対して、馬は反抗的に後ろ足を蹴り上げる。その後にEOのビジョンのように映るのは、馬が柵の外側を回るショットである。ここで、自分が馬でないことがカサンドラと共にいることができない理由であると思ったように見える。カサンドラがEOの元を訪れる時、EOは柵によってカサンドラと隔てられている。柵の向こうにカサンドラと共にいるのが恋人であり、彼はバイクにカサンドラを乗せ、EOの元から去っていく。

そして、EOは馬になろうとする。原案であるロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』におけるロバであるバルタザールは徹底して無力な存在であり、状況に対して何も働きかけることができない。EOは馬になろうとし、自ら移動する決意を固める点でバルタザールと異なる。カサンドラは「願いが叶うように」と語りかけながらEOににんじんケーキを食べさせる。願いが叶ったかのように、EOは柵から飛び出し馬のようになっていく。馬のように人間に反抗し、ビジョンの中でEOの影は歪み、馬のような像になる。遂には馬のしたのと同じように後ろ足で人間を蹴り殺し、人間から馬とみなされ馬として輸送されるようになる。そして、カウボーイのような男と出会う。

この映画において、赤いライトによって演出されるショットはEOのビジョンとしておかれている。であれば、食用ではあるが馬として輸送されるシークエンスはビジョンであり、冒頭のある種性的にも見えるカサンドラとのサーカスの演目でのショットもまた、EOの見たビジョンである。EOは元々カサンドラと結ばれてはいない。そして、EOは馬として振る舞っているだけで馬と見做されているわけではない。カウボーイのような男は、義理の母親にEOのように支配されており、EOのように仕事を奪われ逃げていたことがわかる。EOが男の元を去るのはそれが理由だろう。

EOはロバであり馬ではない。足の短いロバは馬のように速く駆けていくことはできず、人間に対しても無力である。EOの移動の殆どが、自力によるものではなく人間による輸送によるものである。EOが蹴り殺すことができるのは、自分の方に屈んできた状態での人間のみである。そして、状況は元には戻せない。サーカステントから輸送され牧歌的な農場で放し飼いされていたEOは、移動、逃走を経るごとに郊外、都市部を経て、その向こうにある工場地帯へと辿り着く。牧歌的で自然に溢れた風景は、暴力的で機械的なものへと変わり、初めは自然に流れていた川も、流れの制御された巨大なダムへと変わる。EOの行き着く結末は、森へと向かう際のビジョンのシーンにおける風力発電のプロペラに直撃し落ちて死ぬ鳥のショットによって示唆されており、必然的のように屠殺工場へと辿り着く。ロバだったEOは、馬になろうとし、結果家畜になり牛と共に屠殺される。

ジョーダン・ピールの『NOPE』でも描かれていたように、馬は映画(その中でも特に西部劇)を象徴するような存在である。であれば、「馬ではない」存在としてのロバは、映画的でない存在を象徴しているようにとることも可能である。赤いライトによって演出されるEOのビジョンのシーンには、明らかに幻想だとわかるものと、現実に起きたことのように見えるものがある。サーカス団から離されたEOの元にカサンドラが訪れるシーンと、EOが食用の馬として運ばれて以降、カウボーイのような男と出会うまでのシーンである(ビジョンとカウボーイの登場はパトカーの赤い灯りから離れることによってビジョンから現実へと切り替わる)。そしてこの二つは、この映画において唯一映画的、ドラマティックなシーンである。その他の現実のシーンは、非常に淡白で、ある種滑稽に撮られている。例えば、EOが人を殺すシーンですら淡白である。EOは映画的な瞬間を幻視しつつも、映画の中においてすら現実には映画的でない。そして、EOの憧れる馬のように、強く美しく、反抗的で自由である存在だけが現実にも映画的である。

イエジー・スコリモフスキは『早春』や脚本を手がけた『水の中のナイフ』によって、不能な男性、つまり「馬ではない」男性を描いていた。それは西部劇における男性、映画的男性へのアンチテーゼでもあり(この点で、映画的な出来事から疎外された女性を描いたバーバラ・ローデン『Wanda』と響き合うように感じる)、そうではないからこそ生まれる社会との距離や軋轢を描いていたように感じられる。西部劇の時代から今に至るまでに、馬は車に仕事を奪われ、工場でサラミに変えられてしまう存在となった。そしてカウボーイもまた仕事を見つけられない。映画的な存在は今や映画の中にしか存在しないのかもしれない。

屠殺される直前、EOはダムの水が逆流する様を幻視する。水の放流口は、EOが都市へと抜けたトンネルに対応する。このショットによってEOは最後、状況が元に戻ることを願っているように感じられる。しかし状況は不可逆である。『バルタザールどこへ行く』において、バルタザールは近代化の結果飼い主の女性と隔てられる。目にするのは、牧歌的な農村風景から近代社会へと移行していく様、その中での残酷な人間性の変化である。『EO』において時間の変化は地理的移動へと置き換えられており、EOは農村部から郊外、都市部へと移動することで、バルタザールが見たものと相似する変化を目にしていく。自由に走る馬は農村部にのみ幻のように存在していて、都市部には存在しない。そして舞台は現代であり、EOにおいて農村部は表面的には牧歌的でありつつ地獄でもある。バルタザールが変化に対して無力だったのと同様に、EOは元の場所に帰ることができない。そもそも、EOは最初のサーカステントにおいても抑圧されているように見える。バルタザールは帰る場所として幸福だった過去を持つが、EOは帰る場所すら持っていないのかもしれない。バルタザールはどんどんと悪化する状況に直面し、最後は死によって幸福だった時代に戻る。屠殺場で歩くEOは逃げようとせず、自ら死に向かっているように見える。その後カサンドラの元へと戻れたかどうかは明示されず、屠殺音だけが響き、画面が暗転する。

 

追記: バルタザールとEOの目について

バルタザール役のロバは接写されると怖い、ひん剥かれた白目の露出した目をしていた。『バルタザールどこへ行く』は目撃することしかできない存在についての映画であり、だからこそその目の造形が重要だったように感じている。それに対して、EO役のロバは垂れ目で白目があまり見えない。『バルタザールどこへ行く』ではバルタザールがひたすら「見る」映画であり、バルタザールに見える視界は映さず「見る」バルタザールだけを映すことで、その奥に閉じ込められ、発露しないべっとりした情念のようなものを映し出していたように思う。それに対して、『EO』ではEOの視界ははっきりと映され、EOは鳴き声によって感情を表現することができる。それによって、バルタザールと比べた時にEOの直接的、表面的な感情を感じることはあれど、深層意識的な奥にある何かは感じ取れない。それは代わりに、EOのビジョンとして映像的に映し出される。そもそも、EOが見るのは馬とカサンドラ、もしくはビジョンばかりでありカメラに映る他の社会にほとんど目を向けていない。「見る」だけの存在だったバルタザールに対して、『EO』におけるEOは「見れていない」存在であり、目の前の現実よりも幻想を見ている存在なのかもしれない。