フィル・ティペット『マッドゴッド』を読み解く


難解なフィル・ティペット(Phil Tippett)による2022年作『マッドゴッド(MAD GOD)』の内容を読み解いていきます。ネタバレがあまり関係ない映画ではありますが、気になる方は見た後に読んでください。

繰り返されるバベルの塔

この映画の監督が実写映画における特殊効果の第一人者であること、この映画においてあらゆる時代の実写映画が引用されていることを考えれば、冒頭に映されるバベルの塔は実写映画の塔だと考えられる。アルケミストが上の世界の監督の送ったアサシンの記憶を覗き見た時、そこに映されるのはアサシン達が他の人間を殺戮していく映像となっている。それは、特殊効果を使った映画がその他過去にあった実写映画を破壊してしまったことを意味するのだろう。監督がいる上の世界はバベルの塔の上であり、下の世界は地上である。バベルの塔の上には監督一人だけが残されている。

特殊効果によって人々は映画の中に新たな自然を作り上げる。それはバベルの塔の建設に重ねられる。観客は現実世界に存在する自然ではなく、その作り上げられた自然を見るようになる。バベルの塔を建設することは神から見れば偶像崇拝であり、冒頭の引用は、神によってその罰が与えられたことを意味する。その結果が下の世界の現状だろう。

下の世界は、地下へ潜るほど未来の世界を表しているようで、第一幕でアサシンが降り立った場所は過去のホラー映画のような世界となっており、その後より地下に向かった先に広がるのは、人間が他の生物を使いつつも、自身も機械の一部、歯車や動力として生まれたてのコンピュータを育てるディストピアである。それはいわば、実写映画という偶像を生み出した人々に対して神から与えられた罰のように映る。映画におけるテクノロジーの発展の先の必然として生まれたコンピュータグラフィックス(CG)は特殊効果を含めた実写映画を排除してしまう。そして、そのさらに地下、つまりその未来には人の気配も光もない荒れ果てた土地が広がっている。これは、その後映画自体が失われることを意味する。

また、ここでバベルの塔の建設を特殊効果へと至る実写映画の進化ではなく、機械化へと至る人類の工業化、近代化の過程とより広く捉えれば、これは機械が人間を疎外するようになった世界だと捉えることができる。ここでの機械はコンピュータでありAIとなっている。そして、その未来には人間がほとんど死滅した、ターミネーターのような世界が広がっている。

監督はバベルの塔の頂上から地上世界に向かってアサシンを派遣する。その目的は人間、実写映画を支配するようになったコンピュータ、CGの爆破とも解釈できるが、アサシン達が下へと潜っていくこと、そして地上世界において下に潜るほど未来へと向かうことを考えれば、未来の破壊、つまり改変を意味していると考えることもできる。しかし、監督の試みが常に失敗していることは積み上がったアサシンのスーツケースによって察される。第一幕の終わり、アサシンは時限爆弾を設置するが巨大な生物によって捉えられてしまう。

時限爆弾につけられたカウンターは爆発手前で作動しなくなる。そもそもこの世界では時計は全て正常に動いていない。この世界では時間は停滞していて、正常に進んでいないと考えられる。それが時限爆弾が作動しなかった理由となっている。

第二幕でアサシンが降り立つのは今度は人のいなくなった世界であり、この世界においては平面方向の移動が時間軸の変化を伴う。アサシンが移動した先では第一次、第二次世界大戦が行われている。そして、さらに移動した先、つまりその未来には原子力爆弾がいくつも爆発した世界が広がっている。アサシンは、地図通りに進み、その先で地下深くに潜っていく。時限爆弾が設置されたか、それが無事作動したかは最後まで明確にならない。

地上世界の地下には機械のために労働する人間とは別の人間が生きている。彼らはストップモーションではなく実際の人間として撮られており、その背景はCGである。彼らはグリーンバックの世界に生きている。彼らはアサシンを解剖し、ストップモーションで作られた赤子を取り出す。そして、彼らはペストのマスクを被った生き物に渡す。この生き物はCGによって作られており、そのままCGによって作られた映画を象徴する存在となっている。

ここで、五感のうち視覚しか持たないアサシンは、実写映画におけるカメラを象徴していると考えられる。第一幕と第二幕の間に、アサシンの解体される姿があたかも映画のように観客に向けて上映されるシーンが挟まれる。これはカメラ(アサシン)によって撮影された素材が切り刻まれたもの、つまり編集されたものが映画であるからだろう。

CGの世界に生きる人々は、送られてきたアサシンを全て捕え解体し続けている。カメラによって撮影された素材を解体し、その中から特殊効果の撮影されたものを取り出し、そしてそれをCGによって作られた映画に捧げている。これは、CG映画が過去の実写映画から部分を取り出し、自身に適合させる形で利用してきたことを意味する。

また、これはより広い捉え方をするなら、カトリック時代にがギリシャ時代の人々の科学的知見の積み重ねの一部のみを引き継ぎ利用したこと、現在の社会がカトリック社会の宗教的な意味合いの積み重ねの一部のみを引き継ぎ利用したことなど、過去に積み重ねられた叡智の一部のみを引き継ぎ自身の社会に適合させてきたその普遍的な歴史を表すものとも考えられる。

そして、CG映画はアサシンから取り出した特殊効果による映像を錬金術師に渡す。錬金術師はCG技師を表していると考えられる。そして、錬金術師もまた、巨大な猿のような生き物を使って新たなバベルの塔を作ろうとしている。錬金術師は、特殊効果による映像を殺し、金に変え、さらにそこからCGの宇宙を生み出す。

その宇宙は宇宙の誕生の歴史、現在に至る人類の誕生の歴史をなぞり、そしてその未来にあるモノリスの到来へと至る。そして、未来の極限まで行きついた後、時間は巻き戻る(これは第二幕のアサシンによって引き起こされたのかもしれない)。そこで遡られていくのは壁画から宗教画、そして映画に至る人類の創作の歴史、その表現方法の変化の歴史である。これまでも、あらゆるメディアがバベルの塔として支配的になり、その罰のように衰退してきたことがわかる。

ここもまた広く捉えると、人類がその歴史上さまざまな形の統治の発明によって栄え、衰退してきたこと、つまりこれまでも様々なバベルの塔が建設され、その罰が下されてきたことを意味する。

宇宙の作成、それに伴う時間の逆転により、止まっていた地上世界の時間がまた正常に進み始めるようになる。それは監督がアサシン達を通して地上世界に仕掛けてきた時限爆弾が作動すること、つまりこの世界の終わりを意味する。その始まりを告げる鳩時計の音によってこの映画は終わる。

ここで、特殊効果の映像によって作られたCGの宇宙は、特殊効果とCGによって作られたこの映画自体を意味するとも考えられる。であれば、錬金術師はこの映画を作った今の監督自身であり、バベルの塔の頂上にいる監督は、特殊効果のみを用いていた頃の監督だとも考えられる。CGと特殊効果を用いたこの映画の作成によって、過去の監督が望んできた世界の終わりが果たされる。

この映画の製作を通して、監督は次の世代のクリエイターに自身の持つ技術を伝えることができたらしい。この映画で描かれる人類の歴史は、バベルの塔が繰り返し建設され破壊されてきた歴史であり、その結果はディストピアだ。その歴史には常に操られ、犠牲となる人々が存在する。それら人々を象徴するのがアサシン達であり、その目はカメラのように、操られながらもディストピアとなっていく世界を目撃し、記憶し続ける。アサシン達が戦争に駆り出されたように、カメラもまた戦争の道具として利用された歴史を持つ。そして、監督は映画を作ることによってその歴史を辿ってきた世界、その先にある未来を冒頭の引用にある神の罰のように破壊する。それは、そのバベルの塔の因果から自由になった新しい世界を望むからこそなのかもしれない。

引ん剥かれた目

過去の映画の引用としては『吸血鬼ノスフェラトゥ』からデヴィッド・リンチ、フリッツ・ラングから戦争映画に行き着くような、ある種監督の偏愛的な映画史を辿るようなものとなっている。その中でも象徴的に引用されるのが『アンダルシアの犬』や『バルタザールどこへ行く』『時計仕掛けのオレンジ』などに現れる、引ん剥かれた目というモチーフとなっている。『時計仕掛けのオレンジ』ではその目は無理矢理洗脳映像を見させられ、『バルタザールどこへ行く』でバルタザールはその目で自分ではどうすることもできない現実世界の崩壊を見ることになる。

それはあたかも、グロテスクな世界を目撃し記録することしかできないアサシン=カメラ、そしてその世界を映画を通して強制的に見させられる観客である私達を象徴しているように感じられる。それはおそらく、監督自身にとっての映画、そして今の世界、その未来の見え方を象徴しているんだろうと思う。この映画はグロテスクな世界、その歴史と未来を強制的に見せつける映画であり、同時にそれを破壊しようとする映画となっている。

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