オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani)監督による1996年作『群盗、第七章(Brigands, chapitre VII)』について。
主人公は誰を生きているか
中世、ソ連占領下、内戦下の現代という3つの時代のジョージアにおいて群盗である人々を描いた映画。同じ役者が時代に渡って登場し、侵攻、独占、殺戮、裏切りを繰り返していく。どの役柄にも役名が与えられていない。時代の境目は明示されず、連続するショットによって繋げられているため、あたかも並行に起きているように見える。
一部でソ連占領以前、二部でソ連占領下、三部で内戦に至るまでをドキュメンタリー形式で描いた『唯一、ゲオルギア』との共通点が非常に多い。ソ連による銃殺シーンなど『唯一、ゲオルギア』で登場した実際の映像や写真がこの映画でも再現されている。内戦によりジョージアから去った民族、スターリンの粛清によって殺された人々を象徴する、空席だらけの交響曲の演奏というショットも反復される。
上映時間の多くが2つ目のソ連占領下のパートに割かれている。『唯一、ゲオルギア』で、ロシアがジョージアを再び支配下におくために少数民族に独立を唆し、武器提供したという話があった。3つ目であるジョージア内戦パートでの群盗であるマフィア達は、おそらくその武器の仲介によって財を成した人々となっている。
ソ連占領下のパートでは主人公はジョージア人であるスターリンとなっていて、現代パートでは内戦地域に住むジョージア人であり、ジョージアの伝統歌謡を歌っている。そのため、中世のパートでも主人公はジョージア人だと考えられる。そして、中世パートで主人公が侵略する人々はイスラム教圏のような見た目をしている。現代ジョージアの前身であるグルジア王国において、ダヴィド4世がイスラム王朝であるセルジューク朝に侵攻し領地だったトビリシなどを獲得し、グルジア王国の黄金期を築いたらしい。おそらく中世パートで主人公がなっているのはダヴィド4世ということなんだろうと思う。ソ連占領下パートでの主人公はスターリンにそっくりだが、Wikipediaのグルジア王国のページにあるダヴィド4世の肖像画が、主人公に非常に似ている。
そう考えれば、タイトルの「群盗」もジョージアを盗んだ人々を指すというよりは、歴史は群盗のものであり、ジョージアもまた盗むことによって成立した国であるということを指していることになる。そして、主人公がジョージアの支配者であるとすれば、他パートでは支配者である主人公が、ジョージアがロシアの影響下にある現代パートにおいてホームレスとなっていることにも納得がいく。おそらく、他の役者にも民族設定はあり、一部に登場せず二部と三部に登場する役者がいれば、彼らはロシア人ということになるのだろうと思う。
大人達が逃れられない業のように前の時代を繰り返すのに対して、子供達はそうではない。ソ連パートと現代パートに渡って親を殺す子供が現れるが、二人は別の役者によって演じられている。彼らが親殺しを行うのは、ソ連パートでは拷問を見せられ、体制に従順であるように育てられたがために両親を告発し処刑に追いやる。現代パートでは、武器が家に飾られ、人殺しがゲームのように行われる環境で育てられたがために両親達を殺す。
タイトルが「第七章」となっているのは、劇中描かれるものが以前から繰り返されてきたものだということだろう。中世、ソ連占領下と時代を渡って言及されるスペインの靴などの拷問法が書かれた本は、ダヴィド4世が他の王朝から得た戦利品であり、ソ連がジョージア占領時に手に入れたということなんだろうと思う。タイトル、同じ役者が時代に渡って出演することと同様に、繰り返しを示すアイテムとなっている。
中世パートにおける不在時に貞操を守らせるために主人公が妻に鍵のついた鉄のパンツを履かせるというエピソードは、主人公の所有欲、独占欲を象徴するものとなっている。そして、主人公の独占欲の対象を象徴する存在として、中世パート、ソ連パートで主人公の妻となる女性がおかれている。盗むことが中心となった映画だが、そもそも盗むという概念は所有する、独占するという概念がなければ成立しない。主人公は所有が揺るがす存在、その不安によって殺戮や拷問を行う。それに対して、現代パートでの主人公は家を内戦で失い、故郷を捨ててフランスに移住しホームレスとなるなど、何も持たない存在となっている。そして、他の時代で妻だった女性に対しても、自分そっくりな人物が描かれた肖像画が売られているのを見ても所有しようとしない。そして、ワインや食べ物を他のホームレスと分け合う。ある種、現代パートでの主人公は他の時代から引き継いだ業、性質から解放されたような存在となっている。ホームレスのジョージア人達、そして彼らがワインを分け合って飲む姿は『素敵な歌と舟はゆく』など以降の作品でも描かれる(宣伝コピーにおける”ノンシャラン”が指す人物像)が、それは所有欲から解放された、ある種の理想の姿として描かれているのかもしれない。最後に、劇中で描かれた以前のジョージアの原風景のような、牧歌的な役者達の姿が差し込まれる。火を囲んで友人と歌う姿は、現代パートでの主人公とその友人達の姿と重ねられる。
感想
フランスでのイオセリアーニの映画の多くが軽いタッチで表面的には軽く見える出来事を連鎖させていくため、個人的に退屈に感じたが、この映画は軽いタッチで凄まじい出来事が描かれる。アクションを撮るのがめちゃくちゃにうまい監督だったんだと気づいた。表面的には軽く見える出来事の裏に陰惨な何かを潜ませる以上に、陰惨な出来事を象徴的に撮ることで凄まじいショットを生み出せる監督なんだと思った。空の車椅子が坂を下って、倒れた瞬間に鳥が飛び立つショットとか、凄まじいショットが大量にある。