同期する群衆と歯車 ー セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『ストライキ』


セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)監督による1925年作『ストライキ(Strike)』について。

同期する群衆と歯車

「団結だけが労働者階級の持つ力だ」というレーニンの引用が表示され「だが...」という文字が工場の歯車へと変容する。それがこの映画の始点となっており、その歯車の回転は映画全編に渡って労働者達の群衆としての運動量と同期している。その運動量はストライキによって資本家の前へと集まっていく時、そして資本家の下にある警察によって一箇所に追い込まれていく時にピークを迎える。そして、それら二つのピークにおいてモンタージュの速度もピークを迎える。労働者、そして歯車の運動量はモンタージュの速度とも同期している。

冒頭に示される通り、この映画は団結に失敗した労働者達についての映画となっている。抑圧された労働はストライキによって一箇所へと集合し団結する。ストライキによって工場の歯車は回転を止め、労働者達の運動も停滞する。そして、資本家による操作などを通して、運動量を失った労働者達は散り散りになっていく。停止していた歯車を再度回し始めるのは資本家達となっている。その企てによって労働者達は一箇所に集められ虐殺される。そして、警察に追い立てられた労働者達はストライキの時と同じレベルの運動量を持つ。

歯車によって表現される労働者の運動量は、ストライキに向けて大きくなっていき、そして静止し、警察に追い詰められることによって再度大きくなっていく。そして、虐殺によって再度静止する。ここで、1回目の運動量の増加は抑圧からの解放に繋がる正の運動によるものとなっており、労働者達は自ら動き出す。それに対して、2回目の運動量の増加は抑圧に繋がる負の運動のものとなっており、労働者達は警察達によって動かされる。

1回目では労働者達の視線や運動が同じ方向に向かって連鎖する。モチーフの繋ぎ方も連続的なものとなっていて、労働者達の集団の動きが連鎖した結果生まれた運動の重量と大きさが、横向きに移動させられる機関車のショットへと結実する。そして、その質量と大きさを増加させながらその運動を締めるように、その移動させられる機関車の姿が、資本家の部屋の前に集合する労働者達の姿へと変換される。

それに対して、2回目では追い立てられ逃げ惑う労働者達の動きは揃わず拡散していくようなものとなっている。それは労働者達に浴びせかけられた水が拡散する様とも重ねられる。追い込まれた建物は渡り廊下で左右に分けられていて、人々はそれぞれ左や右に移動し続ける。そして、建物の前でのショットで人々はX字を描くように別々の方向へ逃げていく。ここで、ショット間の連続性も同時に失われている。

労働者達は歯車と重ねられると同時に、家畜にも重ねられる。ストライキ前には首輪をつけられ飼われていた動物達のショットが、後には自由に動く動物達のショットが挟まれる。そして、クライマックス直前には首を吊られた猫が映る。労働者達が家畜だからこそ、そこに紛れ込んだスパイ達はサルや犬など、動物の二つ名で呼ばれている。牧場で飼われていた家畜達が団結して逃げ、散り散りに暮らしていたところをまた一箇所に集められ殺されてしまうという流れにもなっている。一箇所に集められた労働者は警察によって撃ち殺される。その姿が動かずに屠殺されていく牛のショットと重ねられる。

群衆のその動きが主役のような映画となっている。労働者達は群衆として名前、そしてヒエラルキーを持たない。それと対比されるのが、個である資本家達や、それぞれの二つ名を持ったそのスパイ達、そしてキングという主導者を持つドカンの中に住む人々である。動き回る労働者達に対して、資本家達は一つの部屋から動かない。