ゴダール、パゾリーニ、ロッセリーニ、そしてオーソン・ウェルズと世界の終わり『ロゴパグ』


1963年作、世界の終わりについてのオムニバス映画『ロゴパグ(Ro.Go.Pa.G)』。物、機械として非人間化されていく人々という主題で共通し、扱われるテーマは精神分析、労働、核兵器、消費。ゴダールとグレゴッティの作品がシンプルで一つの問題意識に絞られ、それを始点として今後それが深められ複雑化されていくような印象なのに対して、パゾリーニのものはカオスで、複数の主題が同時に存在している印象がある。ロッセリーニのはその中間にある感覚。パゾリーニとロッセリーニは映画へのメタ的な言及で共通する。

ロベルト・ロッセリーニ『潔白』

アルフレッド・アドラーの、日常的に不安に直面する、愛含む個人性を失ってしまった現代人は母親の子宮を求めるようになる、というような引用で始まる。乗客の男が、キャビンアテンダントであり夫から離れ搭乗先のホテルに泊まる主人公に執着し始める。それを知った夫は精神分析学者に相談するが、学者は男の求めているのは清楚で包容力のありそうな女性、つまり自分の母親として振る舞ってくれそうな女性だから、見た目をその逆に変えれば執着されなくなると提案する。そして、実際にそうしたら男が主人公から去っていったという、引用の内容をそのまま反映したような話。主人公は思い出を残し夫に送るため映像を撮り続けており、それを真似した男は主人公の映像の映像を撮る。夫は見た目の変わった主人公の映像を何か悲しげに見つめ、男は以前の見た目の主人公の映像を見続ける。

主軸となっているのは精神分析であり、精神分析において人間は観察の対象でしかなく、動きや見た目の分析によってその人間は類型へと還元される。また、この短編においてカメラは人間の記録装置であり、人間を観察対象として、動きや見た目に還元するものとなっている。カメラによって人間はイメージに還元され、精神分析によってそのイメージが類型へと還元される。それによって、その人の個別性が剥ぎ取られる。 男は、目に焼き付けるように主人公の姿を盗み見する。そして、その焼き付けた姿を雑誌プレイボーイに載る女性たちの姿と比較し把握する。男はカメラ、そして分析を内在化した存在として、個別性を剥ぎ取った形で主人公を認識している。主人公をゴールデンエールガールという類型に落とし込む。それは男にとって母親の子宮的な女性、マリア的な女性という類型でもある。 男が精神分析学者と同じ観察映像に対する分析という手続きを踏んでいるため、精神分析学者の考えた対処が有効なものとなる。類型としての主人公を求めていた男は、イメージの変わった主人公から離れ、以前の主人公を求めるようになる。しかし、それは個別性を持った人間ではなく、人間から写像されたものである。男は個別性を持った人間ではなく、類型に対しての有効な方法を調べ実践し失敗する。類型化された主人公は映写された主人公と対応する。類型化された人間と触れ合うことは不可能であり、男は映写された主人公の姿に対して抱きしめキスしようとするが、自分の上に映像が映るだけで、その映像すらも触れることができない。 主人公の同僚が、夫の映写された姿を元に評価を下すように、あらゆる人々が男や精神分析学者と同じ過程で個別性を剥奪して認識している。主人公はそれに対してそれ以上夫の映写した姿を見せることを拒否し、夫は映写された主人公の姿を悲しそうに見つめる。この夫婦のみが個別性の元に互いを認識している。引用と重ねるなら、この二人のみが愛を喪失していない存在として現れる。

ピエル・パウロ・パゾリーニ『ラ・リコッタ』

ゴダール『パッション』のような、映画の製作過程についての映画。『マンマ・ローマ』と同時期の作品であり、オーソン・ウェルズが監督役として出演していて『マンマ・ローマ』の脚本を読んでいる。舞台は撮影現場で、撮られているのはキリストの最後の晩餐と磔刑のシーン。 エキストラである主人公は見学にきた妻と子供達に差し入れの食べ物を譲ったことによって食べる物がなくなる。やっと手にいれた食べ物は、富豪の犬によって食べられる。主人公はその犬以下の存在のようにおかれる。 監督であるオーソン・ウェルズは、発された言葉に理解も疑いも挟まずそのまま飲み込む記者に対して、そのような人間のことを平均的な人間と呼び、そのような人間は資本にとってはただの労働力であり人間ではない、そして彼らのような順応主義者こそが差別主義、そして植民地主義を強化していると言う。 しかし、その新聞社のオーナーは映画のプロデューサーでもある。赤狩り後のオーソン・ウェルズは、全てを諦めたように無気力に映画を撮っており、自分がマルクス主義者であると言いつつもプロデューサーの下に仕え、俳優に対して権力的に振る舞う。 新聞記者に加え、俳優達もまた労働力としてしか扱われない存在である。映画はカラーで撮られる、金がかかっているのに対して、撮影以外の時間の俳優達の姿、本来の人間としての姿はモノクロでしか撮られない。そして、撮影されるシーンの中で俳優達は動くことを許されない。静止画を構成するオブジェのような存在として扱われる。 パゾリーニはキリストを弾圧し磔刑に追いやった教会の権力者達を資本家達、それに疑いを持たず従ったユダヤ人達を順応主義者達に重ね、乞食など社会の外にいる人々の中からキリストやマリアを作り出そうとしているっぽく、この短編では終盤に現れるプロデューサーや政治家達が資本家として、俳優達と新聞記者が順応主義者として、そして主人公が社会の外にいる人としておかれているように思う。また、赤狩り後のオーソン・ウェルズはマルクス主義者でありつつも順応主義者にさせられた存在のようにおかれている。 『アッカトーネ』では乞食として運命づけられた存在として主人公であるアッカトーネがおかれているが、この作品でも主人公は自分に天職が与えられているとすれば、それは飢えることだと言う。主人公はアッカトーネと同じ立ち位置にいる。 そして、この作品と同じ時期に撮られた『マンマ・ローマ』においては、主人公であるマンマ・ローマがマリアであり、その息子は磔されたような姿で、精神病棟に永遠に幽閉される。パゾリーニの初期作品において現代のキリストは、磔にされるが奇蹟を起こすこと、復活することは不可能な存在となっている。 この短編においては、乞食である主人公は俳優達から食べ物を恵まれず、逆に終盤には最後の晩餐として様々な物を大量に食べさせられる。そして、そのままモブとして磔のシーンを演じることによって、訪れたプロデューサー達も見守る中、過食を原因として死ぬ。 オーソン・ウェルズによって、資本にとって平均的な人間は人間ではなくただの労働力でしかないと言われる。そして、死んだ主人公を見て「彼が死んだことによって、我々は彼が生きているということを思い出した」と言う。人間ではない人間のさらに外にいた主人公は、磔にされ死ぬことによって、それまでは生きていた、つまり人間だったことを資本家達含めた全ての人に示す。 この短編を挟むことで、『マンマ・ローマ』とその次の、キリストが磔刑され奇跡を起こし復活するまでを撮った『奇跡の丘』が繋がるように思う。そして『愛の集会』を転換点としてそれ以降の作品があるように感じる。

ジャン=リュック・ゴダール『新しい世界』

パリの上空120kmで原子力爆弾が爆発する。街は変わらず、新聞は市民への影響はないと伝えるが、主人公の男はその日を機に恋人が変化したと感じ、街もまた変化したが、他の人々は気づいていない考えるようになる。恋人は会話が通じなくなる、論理性を失ったように見えるが、それは原子力によるものなのかそうでないのかはわからない。街もまた、実際に変化したのかしていないのかわからない。もし変化していたとすれば、その変化は論理の喪失であり、人々が機械の論理に組み込まれたこと、自由を失ったことを意味する。そして主人公もまた、この先論理性を失っていくのかもしれない、その場合誰も自分達の自由が奪われてしまっていたことを自覚せずに生きていくことになる。そうなった時のため、人間が自由だった頃の最後の記録として、未来の人々が読むように手記を残そうとし始めて終わる。原子爆弾のニュースを機に、世界が既にディストピアに変化してしまっていたのではないかというパラノイアックな思考に陥る男性についての短編。この短編自体がゴダールの手記であり、未来の人々に向けたタイムカプセルのようなものとなっている。そして、もし本当に何かが変化していて人々が論理性を失ってしまっていたなら、未来の人々にとってその変化は起こっていないと判断されることになる。そして変化が起きたと判断されるなら、その変化は起きていないことになる。この短編を今見たとき、人々が非人間化する前の最後の記録になっていると思うかどうか。

ウーゴ・グレゴレッティ『にわとり』

地鶏の定義をこの作品で初めて知った。好きな時に餌を食べることができる、望む時に自分の望むことをできる形で育てられたのが地鶏で、工場的に制御され育てられたのがブロイラー。富裕層であり自分達が地鶏だと思って生きている家族が、本当はブロイラーだった、自分の意思で望む時に望むものを手にいれていると思っていたが、その欲望自体が消費行動として経済学者達によってデザインされたものだったという短編。典型的な富裕層家庭の1日と、経済学者のイタリアの経済成長のために企業がどのように消費者行動を操作すべきかというプレゼンテーションが交互に、その家庭の行動が操作されたものだったことを示す形で映される。そのプレゼンテーションでは、消費者が望むものとして提供されたものが消費者の意思で拒否した場合も織り込まれている。消費者の欲望、それに基づく意思決定だけでなく、意思による拒否もデザインされたものとなっている。経済学者は喉を病んでおり補助装置を使って発声するが、その声はロボットのように聞こえる。そしてラスト、企業のトップ達とそのロボットのような経済学者は機械的に握手を交わしていく。それによって人々の意思を剥奪された機械的な行動が機械によって操作されている、人々全体が一つの機械になってしまっているような感覚を残してこのオムニバスは終わる。

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