ジョルジュ・フランジュ『殺人者にスポットライト』における真の殺人者は誰か


ジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)による1961年作『殺人者にスポットライト(Pleins Feux sur l'Assassin)』について。

死期を迎えた古城に孤独に暮らす伯爵は、オルゴール付きの人形と共に鏡の裏に隠された部屋に入って死ぬ。鏡の裏の部屋の存在は誰にも知られておらず、伯爵の死体は誰にも見つからない。伯爵が死の前日にあったことは召使いが証言するが、伯爵が実際に死んだかどうかは誰にも確信されない。そして、その鏡はマジックミラーとなっており、城の中が見えるようになっている。伯爵は鏡の向こうの世界に行き、鏡越しに城に入ってきた人々を監視しているように感じられる。

伯爵はその世界に入るとき「自分の墓は自分で守れ」と呟き、騎士の格好をしている。そのセリフは過去代々引き継がれてきた家訓のように響く。伯爵はその墓である古城を守る騎士としておかれる。そこに、その墓を荒らす存在として相続人である主人公含む子孫達が現れる。しかし、伯爵は死体が見つからないことから行方不明として扱われ、相続できるのはそれが死と認められる5年後になる。相続人達は相続できる5年後まで、その遺産である古城の維持費や税を払う必要に迫られる。それが解決できるまで、相続人達は古城を去ることができなくなる。実質的に古城に閉じ込められた相続人達は、何者かによって一人一人殺されていく。所有者が幽霊のように存在する古城に閉じ込められた相続人達が、謎の存在によって殺されていくという古典的なプロットを持った映画となっている。

相続人達は、維持費と税を捻出するために古城を観光客に解放し、呼び込みのために家系の出来事を劇として見せることにする。古城を見学する観光客のために人のいる部屋がどこかをランプによって示す監視システム、ナレーションを流すために各部屋にスピーカーをつける。劇のためにスポットライトを設置し、騎士の戦う音、馬の走る音などの効果音を録音する。この劇は劇中劇としておかれていて、この効果音はアフレコされたこの映画内での効果音と全く同じものになっている。いわば、この映画自体に何者かがメタ的に音声を追加していることが明示される。それによってスポットライトもまたメタ的な意味を持つようになる。そして、上演される劇は妻を寝取られた騎士が、その愛人を殺すというものとなっている。

謎の人物は、城内に設置されたスピーカーとスポットライトを使うことで相続人を殺していく。そして、その存在は城内の監視ランプによって可視化される。誰もいないはずの部屋で監視ランプが点滅し、幽霊のようなものが城内を歩いているように見える。そしてその幽霊のような存在はスピーカーによって声を持つ。相続人達による劇中劇もまた、光と音によって今存在しないはずの人物を存在するように見せるものとなっている。劇中劇において人物は演じられず、スポットライトや城内の電灯を光らせることによって、その人物がそこに存在することだけを示す。そして、録音された音声を再生することによって、その存在しない人物の発した音が表現される。劇中劇において、その存在しない人物は古くこの城に住んでいた騎士であり、この映画内においては死んだはずの伯爵である。

特異な存在として主人公の恋人がいる。主人公は恋人があたかも見られてはいけない存在かのように、城内に入ること、そして城内の他者に見つかることを禁じる。恋人は城内で起こっている出来事を見ることができない。主人公は、事件が起こるたびに城内での出来事を恋人に対して物語り、それによって恋人は状況を把握する。伯爵は人形を手に持って死ぬが、その人形にはオルゴールがついている。主人公の恋人は冒頭、ラジオ(のように見えるもの)から流れる音楽に合わせて踊るが、その音楽は人形のオルゴールと全く同じものとなっている。そして、誰もいないはずの部屋で、伯爵の幽霊の存在を示すかのように監視ランプが光っていた理由が、その恋人が城内に勝手に入っていたからだということが明らかになる。主人公の恋人は伯爵の人形と重ねられている。伯爵は幽霊として城内を動き回るとき、常に人形を手に持っている。

であれば、幽霊である伯爵は主人公と重ねられていることになる。劇中、明らかに違和感のある音が鳴るシーンが二つあり、それは主人公の恋人が踊り始めるシーンと、伯爵の子孫としての正装を着た主人公が現れた瞬間、そこにいないはずの馬の鳴き声が鳴り響くシーンとなっている。この映画において馬は騎士を象徴するものとしておかれている。主人公は伯爵と同様に騎士のようにおかれている。そして、主人公は劇中劇によって過去城に住んでいた騎士を現出させる。それは恋人が思いつき、提案したアイデアである。

であれば、城に歴代住んできた騎士である主人公は城を守る使命を持つことになる。その遺産を狙う相続人を殺していったのは主人公であり、恋人は主人公からそのプロットを聞きながらアドバイスを行っていたことになる。博物館の学芸員である男が真犯人だったことがラストで明らかになるが、その男は逃亡中に銃殺され、他の殺人も彼によるものだったのかどうかは明らかにならないまま終わる。学芸員である男は、乗馬好きの女性の酸素吸入器を外し殺そうとするが、それは主人公達による罠であり、真犯人として扱われる。しかし、これまでの殺人はスポットライトを使ったり、スピーカーが設置されて以降はそれを使って誰かを殺人や自殺に追い込むなど、間接的に行われている。であれば、学芸員である男もまた真犯人によって殺人に誘導されたと考えられる。それはおそらく、乗馬好きの女性が他の男を誘惑していることを伝えることによって行われたのだろう。それ以前の殺人は全て主人公によるもので、乗馬好きの女性の殺人未遂は全ての罪を学芸員の男に着せた上で殺害するための罠だったと考えられる。

この映画における真犯人は主人公である。生き残るのは主人公とその恋人、乗馬好きの女性、銃を持った男の4人となっている。馬が騎士を象徴するものであれば、乗馬好きの女性もまた騎士的な存在としておかれる。しかし、彼女は馬を酷使するような乗り方をしていることを指摘される。彼女は騎士になりきれない騎士としておかれている。であれば、彼女が騎士として、学芸員の男への罠だけでなく、その他の主人公の殺人にも関わっていた可能性もある。そした、銃を持つ男が初めて銃を撃ったとき、その弾はミニチュアの騎士の甲冑に当たり破壊する。主人公と乗馬好きの女性が騎士であれば、彼は騎士を殺す存在となっている。それは騎士に対する銃というモチーフからも明らかである。

逃亡中の学芸員の男によって鏡が破壊され、それによってその内に隠されていた伯爵の死体が発見される。相続人達は伯爵の生死が不明だからこそ城に閉じ込められ、城の観光地化や劇の準備を進めていた。鏡の破壊は鏡の向こうの世界との接続が失われたことを意味する。伯爵の死体は彼らの解放を意味すると同時に、密室劇としてのこの映画の終わりを意味する。そして、人形の存在が明らかになったため、恋人も人々の前に姿を現すことができるようになる。そして、城を維持する必要がなくなったため、この城の歴史を語ることもなくなる。そのため、殺人に使われたスピーカーやスポットライトは使えなくなるだろうと思われる。

しかし、この映画の終わりの先に、城を守る騎士である主人公は城とその歴史が消滅することを防ごうとするのだろうと思う。そのためには、生き残った相続人を殺す必要がある。しかし、生き残るのは騎士を殺す存在である銃を持った男であることが示唆されている。主人公はスピーカーやスポットライトなど、いわば城自体を操作することによって相続人を殺してきた。しかし、鏡の破壊、伯爵の死体の発見によってその手段も使えなくなる。いわば、この映画のラストにおいて城とその歴史を語る人物は存在しつつも、そこに住む幽霊達は消滅し、その魔力は失われている。城は銃を持った男に相続され、彼はそれを誰かに売り払い、その歴史も消滅する。騎士の歴史は失われ、資本と銃の時代が来たという終わり方なのだろうと感じる。

ただし、唯一の外部者である主人公の恋人は、主人公による語りの観客としてその歴史を知っている。それは劇中劇の観客達も同様であり、彼女、彼らはこの映画の観客と重ねられているのだろうと思う。そして、劇中劇、恋人への語り両方で監督の位置におかれているのは主人公である。であれば、この映画自体が主人公が観客に失われる城とその歴史を伝えるために作ったものとして捉えることもできる。

ただし、それが切実だったり深刻だったりするかというとそうではなく、それはこの映画が製作時ですら古い物だっただろうパルプ小説原作の映画風に仕立てられていることからも明らかで、伯爵の葬式は主人公の恋人の鳴らすポップソングで茶化される。その曲の内容はみんなで楽しむものだった葬式がなんで身内だけで悲しむものになったのかという歌詞となっている。これは、戦争を経て映画がそう変わってしまったという言及で、監督が同時期の監督と同じく何かの終わりを描きつつも、それを戦前の大衆向け映画をリバイバルさせる形でパッケージしている理由のように感じた。