信じられてしまった虚構 ー サッシャ・ギトリ『毒薬/我慢ならない女』


サッシャ・ギトリ(Sacha Guitry)による1951年作『毒薬/我慢ならない女(La Poison)』について。

スタッフロールの代わりにサッシャ・ギトリが全員の名前を呼びながら俳優やスタッフに感謝してる映像が冒頭に差し込まれており、それによってこれが作られたものであり、演じられたものであることが明示される。

その後続く映画内でサッシャ・ギトリは舞台となる村の神父を演じている。神父は村の人々の罪や殺意の告白を聞くことができるが、それを他人に話すことはできない。その宗教的権力は殆ど失われており、村の人々の生活を覗き見ることはできても、そこに介入することはできない。

神父と同じく村の人々も互いの家庭の様子を気にしているが、それはゴシップのためで、互いに盗み聞きし監視している。そして、神父の代わりに村の人々に影響を与えることができるのはラジオであり、ゴシップとなっている。ラジオは村の外からくるものであり、ゴシップは村の中で共有されるものとなっている。村の人々はゴシップを村中に聞こえるように、ラジオを発信するように話す。村の外に影響を与えることができるものとして新聞がある。村の人々は村が新聞の一面に取り上げられ、増えた観光客によって儲けること、そのために村に事件が起きることを望む。

互いに殺意を描いている夫婦が主軸となっている。夫婦間の殺人を正当化するラジオ放送が流れてきたことをきっかけに、夫は妻を殺す。そして、その事件は新聞で大きく報道され村の観光客を増やす。夫婦は町の人々からゴシップの対象となっており、事件を起こすという期待を寄せられている。同時に、妻はその容姿と振る舞いから村の人々から排除されたような存在となっている。それに対して夫は村に友人がおり、さらにその殺人が観光客を増やすことに繋がったため、村の人々は殺人者である夫に味方する。

ラジオ放送を行なっていたのは夫婦間殺人を無罪に導いてきた弁護士であり、夫婦は互いに殺意を持っているものであり、家庭内殺人は決闘のようなものであり、相手を殺せば以降殺人を犯すことはない、だから無罪であると主張する。妻を殺した夫への裁判の論点はその殺人が正当防衛だったかどうかであり、妻が殺意を抱いていれば無罪となる。それを根拠づけるように、村の一人は夫婦は互いに殺意を抱くものだと証言する。そして、カトリック社会であるために離婚することはできない。それが正しいとすれば、夫婦間殺人は全て無罪となることになる。

殺人を正当化するラジオ放送は村の親たちによって切られ、子供に聞かされることはない。しかし、村中に広がるゴシップは子供に対して影響力を持つ。教会が影響力を失った代わりに、メディアや大衆の声が影響力を持つようになっている。村の外からのラジオが村の人々に影響を及ぼす。それを信用した夫によって殺人が起こり、その事件は村内のゴシップを通して子供達に影響を及ぼし、新聞を通して村の外の人々を村へ呼び込むようになる。

親達は夫婦は互いに殺意を持つと言いつつも、殺人を犯すわけではない。それに対して、子供達は夫婦とは一方が他方を殺すものだと信じるようになる。村の人々の中でも、神父含む教会の人々と、花屋の女性のみが殺人が罪だと考えている。しかし、彼らは聞くこと、見ることしかできず村の人々に対して影響力を持たない。神父は村に観光客を増やすような奇跡を起こすこと村の人々から要望されるが、そのような奇跡を起こせない。それに対して、夫による妻の殺害は村の人々が望んでいた奇跡をもたらす。村に利益をもたらすものとして歓迎される。それによって、夫婦間の殺人は罪ではないという通念が村の中に完成する。

戦後に作られた映画であり、夫がその外見によって妻を殺されても仕方ない存在だと信じ込ませるのは、優生思想を反映したものとなっている。メディア、優生思想、論理的には怪しいが説得力を持つ論理、そのもたらす利益によって殺人が正当化され、法的にも無罪となる。そして、それが大衆の通念となって終わる。

冒頭でこの映画が虚構であることが示されるが、それはこれが現実には起こらないということを言っているのではなく、その虚構が映画=信じられる虚構として成立すると言っているように感じる。だからこそ、冒頭でサッシャ・ギトリは俳優やスタッフに、彼らのおかげでこの映画に現実感がもたらされたと褒めていたんだろうと思う。