オードレイ・ディヴァン(Audrey Diwan)による2021年作『あのこと(Happening)』について。
シンプルな物語構造によってサスペンスを維持する、『ゼロ・グラビティ』のようなアトラクション映画であり、そのアトラクション性によって中絶が違法だった時代のフランスで妊娠した学生の孤独な戦いを観客に体験させる映画。ロングショットかつ長尺ワンカットの撮影によって、カメラが主人公の主観と同期したような映像になっていて、さらに主演のアナマリア・バルトロメイの演技が凄まじく、その発する感情や感覚、意志をも主人公と一体化したかのように体験させられる。
中絶が合法化される1975年以前のフランスが舞台となっている。中絶が違法であるのは、フランス社会がカトリックを基盤としており、婚前交渉が禁止され、女性の役割は家で子供を育てることである、それ以外に選択肢がないという偏見がまだ強く残っていたからだろう。主人公アンヌは優等生でありつつも、それに対して反抗するように、学生寮のルールを破り夜遊びを繰り返している。アンヌのその行動は、旧来の価値観を内在化している他の女学生との軋轢を生んでいる。
進学にむけた試験が迫る中、アンヌは妊娠してしまう。子供を産むということは学業を諦めることを意味する。アンヌは学業、自分の人生のために中絶することを決めるが、それが犯罪であるために、それを母親や教師にも言うことができない。アンヌは妊娠したことを周囲から隠しながら子供を堕ろし、同時に試験にも合格しなければいけない。
中絶が違法であるがゆえに、学生の妊娠はタブーとして見られる。アンヌが教師に言う「女性しか罹らない、主婦になる病気」というセリフに象徴されるように、アンヌの妊娠はまるで伝染性の性病のように周囲に忌避される。妊娠を知った友人達は、それを聞かなかったことにしようとしたり、アンヌから距離を置くようになったりする。そして、アンヌもまた、妊娠が進むにつれて病状が悪化するように消耗し、衰弱していく。
この映画の舞台となる1960年代のフランスにおいては、中絶の権利、つまり性に関する自由を含め、女性の自由に対する価値観はまだ過渡期にあり、女性が大学へ行くことはできるが、選考できる分野は限られている。アンヌはその中でも女性の多い文学を専攻している。劇中、アンヌが試験を心配する母親に対して「試験を受けたこともないくせに」と言い、母親がビンタするシーンがあるが、それは母親は大学に進まなかったのではなく、女性で進めなかったことを意味するのだろう。
専攻できる分野は性別によってだけでなく、社会階層によっても決定されている。アンヌの家庭は母親の収入によって成り立っており、アンヌは母親の仕事を手伝いつつ勉強を続けている。アンヌを妊娠させた男は、それに対して、富裕層出身である。その男は哲学を専攻しており、その友人の男は政治学を専攻していて、その先には政府の要職に向けたキャリアが待っている。学生寮に暮らすアンヌに対して、彼らは自分の部屋を持ち、ヴァカンスのような学生生活を送っている。
『愛と怒り』に収められたマルコ・ベロッキオの短編『議論しよう、議論しよう』で、当時のフランスでは大学への進学率、そして卒業率が親の収入に大きく左右されていたことが語られている。その結果として、大学は富裕層を富裕層のままに、貧困層を貧困層のままに維持する機能を担っている。
アンヌは大学教師になることを目指していたが、中絶に向けた過程を経ることによって作家を志すようになる。それは、大学教授になることがアンヌの自由を抑圧してきた既存の構造を維持することだからであり、作家になるということは、アンヌがこれからもそれと戦い続ける意思を決めたことを意味するのだろう。この映画の原作はアニー・エルノーの自伝であり、アンヌがこの後に書く小説がアニー・エルノーの同名小説だということだろう。
この映画にはサスペンスを高める骨組みが持たされている。明確なゴールとして中絶に成功し、試験に合格することがおかれている。そして、繰り返し表示される妊娠周期は、中絶が不可能になるまで、そして試験までのタイムリミットとしてサスペンスを高めるように機能する。そして、妊娠を周囲に知られてはならないことが、ゴールに向けた制約として機能する。アンヌの学生寮はシャワー、冷蔵庫など多くが共用であり、さらに優等生だったアンヌの成績の下落は周囲の注目を集める。アンヌは常に妊娠が知られてしまうリスクの中にある。同時に、知られてはいけないことによってアンヌの取れる選択肢も狭まっていく。この映画には、明確に設定されたゴールとそのタイムリミット、それを困難にする制約が存在し、それがサスペンスを高めている。
さらに、アンヌ役の主演、アナマリア・バルトロメイの演技が凄まじく、ロングショットかつ長尺ワンカットのカメラはアンヌの主観と凄まじい精度で同期しており、その感情、感覚、そしてその意志までもが直接伝わってくる。観客はあたかも主人公になったかのような形で、当時のフランスでの妊娠、中絶の過程を体感することになる。そして、それはそのサスペンスを維持する構造によっても支えられている。この映画は『ゼロ・グラビティ』の先にあるような、映画のアトラクション性を最大限利用した映画となっている。
同じように映画の没入感、アトラクション性を利用した映画としてシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』がある。『ジャンヌ・ディエルマン』は家庭に閉じ込められた主人公のその起伏のない生活、その退屈さを無理やり観客に体験させる映画だったが、この映画は主人公が潜り抜けようとする苦境、痛みを体感させ、主人公と共に、状況に対して屈さずに戦い続けることを求める。
劇中、閉鎖的な大学構内、学生寮に差す光はあたかもアンヌ自身が発した光のように撮られる。それはあたかもアンヌの精神性が光としてカメラに収められたように見える。その光はアンヌが追い詰められて行くにつれて弱くなるが、中絶手術のシーンにおいても絶えることはない。教授の読み上げるユゴーの詩を背景に教室の外まで照らすように発されるアンヌの光によってこの映画は終わる。その筆音は暗転後も響き続ける。