上演され続ける傷の記憶 ー アラン・レネ『メロ』


アラン・レネ(alain resnais)による1986年作『メロ(melo)』について。

夫婦であるピエールとロメーヌの元にマルセルが訪れる。マルセルは有名なヴァイオリン演奏家で、同じくヴァイオリン演奏家であるピエールとは若い頃からの親友である。マルセルは二人に、自分が嘘に対するトラウマのようなものを持っていることを話す。それは過去、コンサートで恋人に向けて演奏しているその最中に、恋人が浮気しているところを見たが、恋人は浮気していないと嘘をついた経験によるもので、演奏中に浮気を目撃したマルセルは、そこから目を逸らすように音の中に沈み、盲目になろうとしたと語る。最後に現れるのがピエールの従姉妹であるクリスチアーヌで、彼女はピエールに恋をしている。

ロメーヌはマルセルに恋をする。マルセルも同じくロメーヌに恋をするが、ピエールとの友情を保つためにそれを拒否するが、クラブで二人で踊ったことをきっかけに愛し合うようになる。ここで、ピエールは鏡の中から現れ、カメラの外へと去っていく。そして踊り出した二人はカメラから出て鏡の中へと入っていく。 ピエールとロメーヌは、夫婦というより若い恋人同士のように、現実の別世界にいるような恋愛を送っていた。そして、ピエールとロメーヌが愛し合っていた冒頭のシーンは作り物のようなセットで現実離れしたほど美しく撮られている。 ピエールが鏡の中から現実世界のカメラに入り、そこから去ることは、あたかもロメーヌにとってピエールがその別世界のような恋愛の世界、そして現実世界からも消えてしまったことを表しているように感じられる。そして、ロメーヌは今度はマルセルと共に、その別世界へと恋人として入っていく。そして、ピエールはそのことを知らないままロメーヌに恋し続けている。

マルセルは演奏旅行のためにロメーヌから去る。そしてロメーヌはピエールと別れるため、ピエールに毒を盛り続けるようになる。そしてクリスチアーヌはそれを知っている。ロメーヌとマルセルは再会するが、マルセルはロメーヌをピエールの元に帰す。結果、ロメーヌはピエールに別れの手紙を残して自殺してしまう。

ロメーヌの最後の手紙に書かれていた自殺の理由は、ピエールはクリスチアーヌと結ばれるべきだからというものであり、マルセルとロメーヌの不倫はピエールから隠されたままとなっている。そして、クリスチアーヌもまたロメーヌが毒を盛っていたことをピエールから隠す。それを話すことはピエールを傷つけることになるからだ。これは、冒頭のマルセルが話す、恋人から浮気を嘘で隠された話の反復となっている。ロメーヌ、マルセル、クリスチアーヌは、ピエールを傷つけるのを恐れ、真実を話さず嘘をつき続けることを選ぶ。登場人物の中でピエールだけが真実を知らない。

ピエールはロメーヌの残した手帳によって真実を知る。それが書かれたページは糊付けされ閉ざされていた。ピエールは、マルセルが恋人の浮気に対して演奏に没入し目を閉じることによって対処したように、本当はその真実に深層的には気づいていて、それを深層的に押し込めていたのかもしれない。ピエールはその真実を自分のトラウマの奥を覗くように、その閉ざされたページを開くことによって知る。

それを知ったピエールはマルセルの元を訪れるが、マルセルもまた、ロメーヌとのことを決して話さない。マルセルを問い詰めるピエール、そしてマルセルもまた、トラウマとして隠されたような傷を露わにしていく。しかし、マルセルは最後まで嘘をつき続ける。この映画はマルセルの嘘によって他者からも自分からも隠された傷が語られ、露わになるところから始まり、同じくマルセルとピエールの隠されてきた傷が露わになることで終わる。二人は、二人が愛する人のために弾いてきた曲、それゆえにロメーヌが好きだった曲を二人で弾く。それはロメーヌが現実から遊離した鏡の世界で、二人とともに弾いた曲でもある。

冒頭、トラウマについて話すマルセルの痛みに向き合おうとするかのように、カメラはロングショットで彼の語る姿、そしてその言葉を直視し捉え続ける。ロメーヌがこれをきっかけにマルセルに恋することを考えれば、これはおそらくロメーヌからの視線だろう。ロメーヌの自殺のシーンで、カメラは川に入ろうとするロメーヌから遊離するように動いていく。そして、ロメーヌの死後、ピエールが真実の隠されたロメーヌからの手紙を暗唱するとき、カメラはそこから目を逸らすように動き、その後その反応を伺うようにマルセルを映す。それは、あたかもロメーヌが幽霊のように二人の様子を見ているかのようになっている。 加えて、冒頭の三人が月明かりの元で語り合うシーン、このクラブでのシーン、そしてその後結ばれたロメーヌとマルセルを映すシーンはこの映画の中で唯一、明確に作り物じみていて、非現実的なほど美しいシーンとなっている。そしてそれ以降のシーンは基本的に暗く、現実味の強いものとなっている。いわば、この映画はロメーヌの愛が叶っている間、現実ではない鏡の世界にいる間だけ、作り物のようで美しくなる。 この映画は、ロメーヌの生前、死後に見たものを映したものであり、ロメーヌの記憶をそのまま焼き付けたもののようになっている。そして、最初にこの映画が1926年のことであることが明示されるが、それは、この映画に収められた記憶は、普遍的な誰かではなく、過去の一時点に実際に存在した特定の誰かの記憶であることを明示するような感覚を残す。

この映画が舞台の上演であることは、幕間を表すインサートや閉じられたセット、演劇的な役者の演技によって明示されている。 演劇は、役者によって演じられるもので、その度に変化していくものだ。それに対して、映画は一度だけ撮られ、それ以降は全く同じ形で上映され続けるものである。映画は生き直されることがなく、撮影時に生きていたものを映すだけだ。この映画がこのような形式を持つのは、それが1926年にロメーヌによって生きられ、そしてその死によって今後変更されることのない記憶だからだろう。 ではその観客は誰か。この映画において観客の姿は見えず、冒頭、舞台のパンフレットをめくる形でキャストが紹介されている時に、匿名的な声が聞こえるだけで、明確な観客は存在しない。この映画で行われる上演の観客は我々鑑賞者である。そして、演劇は身体的に演じられるためその上演回数は有限だが、映画はフィルムが存在する以上、無限に上映されることができる。いわば、この映画における演劇、つまりロメーヌの記憶は、不変のまま永遠に我々鑑賞者に向けて上映され続ける。

映画において、影として映る姿、鏡の中に映る姿はその登場人物の現実の自己からの分裂を表す。ロメーヌはマルセルと出会う時に、ピエールといる自分から、ロメーヌと愛し合う自分へと分裂する。そして、ロメーヌの自殺の直前、ロメーヌとの間の決定的な溝に気づいたピエールの姿もまた、鏡に映され、分裂する。

ピエールとマルセルはロメーヌといることを、ロメーヌはマルセルといることを、クリスチアーヌはピエールから愛されることを望む。しかし、どの望みも結局は叶うことがない。それによりできた傷は、他者からは嘘によって、自己からはトラウマとして、自己の奥底に押し込められる。この映画はロメーヌの視点を通してピエールやマルセルのその傷が露わになる過程を捉える。そして、そのロメーヌの記憶であるこの映画自体が、ロメーヌの傷を露わにする。この映画は、その露わになった傷の記憶を、上演を通して匿名の誰かに対して永遠に訴え続けている。それは同時に、美しい記憶をも含む。エンドロールで、ロメーヌはその両方を懐かしむように、思い出の曲を口ずさむ。

マルグリッド・デュラスの脚本による『ヒロシマモナムール』は、その土地の持つ集合的な人々のトラウマ、戦争による傷が、男女の別離によって比喩的に描かれた作品である。マルグリッド・デュラスが脚本、監督を務めた『インディア・ソング』『ヴェネツィア時代の彼女の名前』はそれを発展させたような作品であり、そこでは廃墟となった土地に残された死者の記憶が、死者によって演じられた演劇のように映される。この作品は、これら作品の系譜にある。それは『インディア・ソング』『ヴェネツィア時代の彼女の名前』のエンドロールでの鼻歌のような歌声が引用されることからも明らかなように感じる。