エリック・ロメール監督による1963年作『シュザンヌの生き方』について。
日常における支配
パッとしない主人公がおり、その親友は主人公を自分より下の存在として見下し利用している。しかし、主人公はそれを認めない。利用されているという事実を自分自身からも隠蔽している。親友はシュザンヌという女性を同じように利用しており、それを主人公は認知している。そのため、主人公にとってはシュザンヌと同じ位置に自分をおくことが、親友にとって自分が下であり利用されているという事実を認めることに繋がる。
親友はシュザンヌが主人公の下の存在であることを主人公に示す。下の存在をおくことで主人公と親友は共犯関係として利用する側、同じ位置にいるように思い込ませる。それによって、主人公は自分が親友に利用されているという事実を認めずに済む。
親友は主人公の金を盗むが、それを認めることは自身が利用されていたという事実を認めることにもなる。そのため、主人公はそれを認めないために親友ではなくシュザンヌが盗んだという形で事実を歪ませ、シュザンヌが盗んだ理由を作り上げる。認知の歪んだ主人公は、それと矛盾することを言われることを拒絶する。そのため、シュザンヌの友人の言うことにも耳を貸さない。
そして、主人公を利用し尽くした親友は姿を消し、主人公はシュザンヌがそのような上下の関係性、利用する / される関係から自由であること、シュザンヌは主人公よりも下の存在ではなかったことを知る。そして親友も嫌々ではなく自分の趣味でシュザンヌを選んでいたこと、つまりシュザンヌは親友からも下の存在として認知されていなかったことに気づく。それによって、主人公はシュザンヌではなく自分が利用される存在だったことを認めるようになる。
感想 / レビュー
見てて非常に不快な気持ちになるのは、この主人公の囚われている人間に上下があるという考え方だけによるものでなく、これが被支配者間に分断を作り上げ争わせるという、今の社会でも行われている支配方法そのままだからなんだと感じる。ロメールはあまり政治的な映画を取ってない印象だったが、人間に普遍的な性質を撮れるからこそ、この人の映画は政治的でもあり得ているのかもしれない。
主人公とシュザンヌの置かれている位置は『コレクションする女』の主人公とコレクションしている女と同じで、その習作のような感覚がある。『コレクションする女』がかなり他人事のように見れたのに対して、この映画にかなり嫌さを感じたのは、この映画がかなり現実に忠実な感覚があるのに対して、『コレクションする女』では自分が下だと認められない主人公のプライドの高さが前面的に描かれていて、さらにその主人公の映画的な大挫折のショットもあるなど、かなり戯画的になっているからなんだと思った。