エリック・ロメール『モンソーのパン屋の女の子』決定論と自由意志

エリック・ロメール監督による1963年作『モンソーのパン屋の女の子』について。

理性に先行する無意識

主人公はルーティンを持っていて、その中でいつもすれ違う女性に対して執着している。その女性が急に現れなくなったことで、その女性を探すための新しいルーティンを作り出す。その新しいルーティンの中でパン屋を見つけ、そのパン屋で働く女の子に新しく執着するようになる。そして、同じ日にその二人への執着が叶えられることによって、主人公はどちらかを選ぶことを迫られる。

日常生活に見出されていく偏執の対象、そしてその偏執によって変わる行動と日常生活、そしてその日常生活の変化によって新しく偏執対象が見出され、それによってまた日常生活に変化が起こるという変化の流れになっている。主人公にはその無意識的な変化の流れがまず先に存在しており、それに対して正当化するように理性による理由づけが行われる。理性に無意識が先行し、その理性による理由づけがこの映画におけるナレーションとなっている。

理性による選択と無意識

そう思うと途中までは『ベレニス』とほとんど同じ話のように感じる。ただ、屋敷から出られない『ベレニス』の主人公に対して、ここでの主人公は冒頭で示される複数箇所を回り続けるという形になっている。そして、複数箇所を回り続けることによって外部から不確実性が持ち込まれる。それによって、執着の対象が段々と狭くなっていく『ベレニス』とは違い、この映画では執着の対象が移り変わっていく。そのため、『ベレニス』の主人公とは違い、この映画の主人公は選択することができる。

その選択によって、街の決められた場所を操られたようにぐるぐる回り続ける主人公の日常生活に新たな変化がもたらされる。無意識に支配された変化の繰り返しからは抜けられないながらも、理性による選択によってその主人公の辿る未来の可能性にバリエーションが付与される。

主人公は決められた箇所を誰かに無意識的に操られたように延々と回り続けるような存在であるが、主人公は自身の選択によってそこから抜け出すことができる。ただし、その選択自体も天気などの外部環境によって無意識的に決められたもののようにも見える。さらに最後に再びパン屋へと回帰するため、映画を通して主人公はその無意識的に操られた循環から抜け出せていないように感じられる。

感想 / レビュー

自己正当化する信頼できないナレーションを基調として、迷宮を操られ循環するような主人公の動きが繰り返される映画となっている。その中に、その循環から自身の選択によって一瞬抜け出せたような感覚、そしてその選択自体も無意識的なものであり結局はその循環から抜け出せていないという感覚が同時に存在している。そこに何か美しさを感じた。