イメージと現実の狭間で ー ジャン・ルノワール『浜辺の女』


ジャン・ルノワール(Jean Renoir)による1946年作『浜辺の女(The Woman on the Beach)』について。

イメージと現実の狭間で

元海軍である主人公は魚雷で船を破壊される夢を見続けている。翻訳では省略されていたが、海沿いの町の警備隊員である主人公は自身のことをビーチカウボーイと自虐する。主人公は馬に乗り、その町の砂浜に打ち上げられた小さな難破船の元へと通い続けている。主人公は船を破壊され浜辺に打ち上げられてしまった海のカウボーイとして設定される。海軍にいた時の主人公にとっての馬は船であり、難破船は主人公と共に浜辺に打ち上げられたもののように見える。しかし、その夢が主人公が実際に体験したトラウマなのか、主人公の見た幻想なのかは曖昧なまま映画は進む。

主人公はその夢において、魚雷によって沈んだ海の底でヴィーナスのような女性と出会う。その海の底には白骨化した死体が転がっている。そして、浜辺の難破船で主人公はその夢の中の女性と出会う。その夢の中の女性が現実世界に現れる。その女性はペギーという名前で、トッドという夫と共に暮らしている。トッドは昔画家であり、ペギーとの喧嘩によって盲目となり絵を描けなくなってしまっている。しかし、彼が実際に盲目なのかどうかは明確でない。

トッドは自分の描いた絵はその当時自分に見えていたものを忠実に再現したものだと言う。これは、ルノワールの父である画家のオーギュスト・ルノワール、印象派の常套句を反映したものだろう。そして、トッドは過去に自分の描いた絵画、つまり自分が過去に見ていたものを通して現実を見ていることが明らかになる。もし彼が本当に盲目であれば彼には自身が過去に得たイメージのみが見えている。つまり、トッドは過去の記憶によって現在を見ている。盲目でなくとも、彼に見えているものはそのイメージによって歪められている。そして、そうなったきっかけはペギーとの喧嘩となっており、その時に描いたペギーの裸婦像が自身の描いた最高傑作だと言う。

そして、主人公は起きていても夢の世界を幻視するようになっていく。ペギーと出会ったことをきっかけに、主人公は現実世界とイメージの世界を区別できなくなっていく。主人公はトッドのように現実世界とイメージの世界の区別がつかない存在となっていく。そして、ペギーはあたかも魔女のように、二人をそのイメージの世界へと誘うような存在となっている。ペギーと親密になる程、二人は現実世界との境目をなくしていく。

現実とイメージを混濁する姿が水中でもがく姿に重ねられる。トッドは主人公がそうであることを見抜き、自分が釣りが好きでその中でももがく魚を釣り上げる瞬間が好きだと言う。トッドはその言葉の通り、水中でもがく主人公を釣り上げようとするかのように付き纏うようになる。それは、最初妻であるペギーへの執着に由来するものであるように見えるが、釣りが好きということが嘘だと明かされ、最終的にはトッドもまた水中でもがく人物であり、それが主人公に付き纏う理由の一つであったことが明らかになる。

トッドは画家でありルノワールの父であるオーギュスト・ルノワールの思想を反映したようなセリフを言う。であれば、主人公はルノワールと重ねられていて、トッドはその父であるオーギュスト・ルノワールと重ねられていると考えることができる。中盤、トッドが実際に盲目だったことが明らかになる。それによって、トッドは現実世界とイメージの世界の区別がつかない存在だったが、イメージの世界しか見ることのできない存在へと変容する。それに対して、主人公は段々と現実世界とイメージの世界の区別がつかなくなっていく。トッドはペギーと長く暮らすことによってそれら境界を失っていき、イメージの世界のみに住む存在となる。それに対して、ペギーと出会ったばかりの主人公は現実世界に生きていたが、そこに段々とイメージの世界が侵入してくるようになる。トッドは主人公の父、つまり前世代の存在であると同時に、主人公の未来の姿でもある。そして、イメージの世界をもたらすペギーは呪いのように父から子へと受け継がれていく。

トッドの描いていた絵は画面に映されることがなく、彼の見ていたイメージの世界がどんなものだったのかは明らかではない。それに対して、主人公の見ているイメージは画面に現れる。それは船が破壊されるというイメージであり、そこにペギーが結びついている。そして、そのイメージを映したものである夢のシーンにおいてオーバーラップなどの映画的トリックが用いられている。そして、この映画においてその夢のシーン以外では映画的トリックが用いられない。トッド=オーギュスト・ルノワールは自身が幻想として見ていたイメージを絵へと変換し、主人公=ルノワールはそれを映画へと変換していることが明示される。トッドの描いた絵、そして見ていたイメージがどういうものだったかは、オーギュスト・ルノワールの描いてきた絵を見れば明らかになるということだろう。

そして、この映画の主観はイメージと現実が混濁した主人公=ルノワールの主観によって撮られたものとなっている。主人公のトラウマが現実に起きたものかどうかが曖昧なのと同様、ペギーが現実にこのような存在だったのかも曖昧である。実際にペギーと言う名前の人物は町に存在しているが、主人公に見えているような存在ではなく、ペギーやトッド以外の登場人物たちと同じような、普通の町の人だったと言う可能性も考えられる。主人公の婚約相手の兄弟とペギーの間に不可解な出来事があったことが謎として示され、最後まで謎のまま放置される。それは、何かヒロインの秘密に関する何かが起きた結果ではなく、ありきたりな関係性の結果そうなっただけということなのかもしれない。そして、ペギーがトッドと主人公にイメージの世界をもたらしたのか、二人に降りてきたイメージの世界がペギーをそう見せたのかも明確でない。

トッドと主人公は自分に見えているイメージに執着し、二人に見えているものはそれらイメージによって歪められている。そして、ペギーはそのイメージを喚起し、増幅させるような存在である。だからこそ、二人のイメージへの執着はペギーへの執着へと変換される。イメージとペギーは深く結びついており、二人はその二つを区別できていない。だからこそ、二人にとってペギーは何か幻想的な存在として見え、そしてイメージは欲望を喚起させるものとなる。そして、主人公にとってそのイメージは悪夢・トラウマのようなものであると同時に何か惹かれるものでもある。だからこそ、主人公にとってペギーは同時にファムファタール的な存在となる。

主人公とトッドはイメージを奪い合うかのように、ペギーを自分のものにするために争う。結果、トッドは自分が過去に見えていたイメージに囚われていたこと、それによってペギーに執着していたことに気づく。そして、自分の描いてきた絵画をペギーと暮らしてきた家と共に焼くことで、トッドはペギーへの執着から解放される。しかし、主人公は未だにイメージの世界から抜け出ることができておらず、ペギーへの執着を残したままである。そして、町での仕事を辞め、婚約相手の元を去る。盲目の夫にとっては執着が解決し、主人公にとっては執着が深まったという形で終わる。

トッドは主人公の父であると同時に、その未来の姿でもある。主人公は何かのきっかけで悪夢的なイメージに囚われ、それに執着するようになる。それと同時にペギーと出会い、イメージへの執着がペギーへの執着と混同される。そして、ペギーと親密になるに従い、そのイメージが現実世界を段々と侵食してくるようになる。そして、遂にペギーを手に入れて終わるが、それは主人公にとって現実世界とイメージの区別がつかなくなったことを意味する。それはトッドが同じように辿った過程であり、トッドはその後、それでもそのイメージの世界が自分のものにならないことに怒るかのように、ペギーに暴力を振るうようになる。そして最高傑作を完成させた瞬間、つまりイメージの世界を手に入れた瞬間、ペギーによって視神経を切られる。それによって現実の世界を見ることができなくなり、イメージの世界の中に囚われるようになる。そして、ペギーと別れることによってそのイメージの世界から解放されるようになる。ペギー、そしてイメージは主人公の元へ受け継がれていく。

ルノワールは戦争へと帰着する世界、その歴史を映画として捉えてきた監督のように思う。主人公をルノワール自身の反映として見るならば、船の難破するイメージは戦争のイメージであり、主人公の見る夢はそのヴィジョンを反映したルノワールの映画ということになるだろう。そして、そのイメージは実際に起きたことなのか幻想だったのかが曖昧である。だからこそ、そのイメージは過去に起きたこととしても、これから起こることとしても解釈できるようになっている。同時に、そのイメージはパラノイアであるようにも見える。しかし、社会的不安がなければパラノイアは生まれない。そして、その父であるオーギュスト・ルノワールもまた同じようなイメージに囚われ、それを絵画として反映してきたということになる。そのイメージは世代を渡って受け継がれるものである。そう考えれば、その悪夢のようなイメージが過去に起きたことであると同時に未来にも起こることでもあること、そしてそれが世代に渡って繰り返されていくことを示唆しているように感じられる。ルノワールは父の絵画を売って製作資金としていたらしい。それは父のイメージを自身が受け継ぐと同時に、父をそのイメージから解放することも意味していたのかもしれない。