ポール・トーマス・アンダーソン『リコリス・ピザ』直線的な移動が象徴するもの


ポール・トーマス・アンダーソン監督による2021年作『リコリス・ピザ』について。

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あらすじ

舞台は1970年代のロサンゼルス、サンフェルナンド・バレー。実在の⼈物や出来事を背景にアラナ(アラナ・ハイム)とゲイリー(クーパー・ホフマン)が偶然に出会ったことから、歩み寄りすれ違っていく恋模様を描き出す。

リコリス・ピザ - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

ネヴァーランドとしての芸能・広告業界

広告が主軸としておかれており、この映画で描かれるアメリカにおいては芸能人や商品のPRとして自己増殖していく擬似イベントが根付き切っている。理想がイメージに置き換えられ、そのイメージを作りあげるためにはカテゴライズが必要となる。そしてイメージが目的となるため、カテゴライズに伴う差別的な言動も当たり前のように存在している。

その世界に関わる大人たちは子供として描かれている。その世界の外側にいる存在として25歳のアラナがおり、その世界にいる子供の一人としてゲイリーがいる。15歳であるゲイリー含めた子供たちは年齢に対して大人びていて、同じ世界の大人たちと同じ年齢であるかのように振る舞い、大人たちもそれを意に解さない。ただ、その子供たちも結局は子供であり、それが灯油のパイプをしごいて遊ぶ姿に象徴される。この映画に出てくる芸能界含めた広告業界において、そこに関わる全員が同じ17歳くらいの精神年齢となっているように見える。

ゲイリー含む子供達の移動は基本的には直線的なものになっているのに対して、その大人たちの移動は常に不安定なものとなっている。泥酔して一人でふらふら歩きながら女を見つけたら戻ってくる。バイクで直線的に疾走したとしても、その先に待っているのは不安定な転倒である。

直線的な移動の一致

冒頭、カメラは主人公を追いかけつつも誰を映せばいいのかわかってないように左右に揺れる。その後、アラナとゲイリーの移動が一致するようになり、カメラは段々と左右へ直線的に駆け抜けていく2人を捉えるようになる。

ゲイリーは子役、PR会社の子供として、前世代の住むPRの世界を次の世代へと持ち込む存在となっている。それに対して、アラナはゲイリーによってその世界に一度足を踏み入れるも、その世界においてアラナは子供の世界にいる大人であり、相容れない存在となっている。それを象徴するように、アラナは俳優の乗るバイクが走り出す瞬間に振り落とされる。

二人の直線的な移動の一致は、2人が共にその広告システムの一部として共謀していたことによる。車による直線的な移動を止める出来事としてオイルショックがおかれており、それはアラナがそのシステムから抜け出す契機にもなっている。オイルショックを契機として、アラナの直線的な移動は止められ、ガソリンの内車のような不安定な移動へと移り変わって行く。ゲイリー達はオイルショックの意味を理解せず子供として走り続け、2人の移動の一致は失われる。

広告システムの外部としての理想郷

ゲイリー達はそこから遂に合法となったピンボールを主軸にしたゲームセンタービジネスを始めるが、そこでラジオやパブリックイメージなどの大衆へのPRに頼らず地道に顧客を集めるようになる。そして、そのゲームセンターは網羅的に富裕層をターゲットにしていた水ベッドのビジネスとは対比的に、地域的でその地域に住む全員をターゲットにしたものとなっている。そのゲームセンターはまだ広告システムに侵されていない理想郷のように映る。

広告システムから抜け出したアラナは大人の世界として政治の世界を見つけるが、その世界も結局はPRを中心とした世界だったことに気づく。そのPRのために愛すらも足蹴にされていることを目撃する。タクシードライバーの主人公はテロ行為によって擬似イベント的に有名人となるが、ここでその主人公が象徴的にオマージュされる。その人物が起こそうとしているのはPRによる政治家への攻撃となっている。政治に対する攻撃すらも広告のシステムに飲み込まれている。

そしてゲイリーはアラナの元へ、アラナはゲイリーの元へと駆けて行く。オイルショックを契機に不安定な移動に置き換わっていたアラナの直線的な移動がここで復活する。ゲイリーにとってそれは大人への疾走であり、アラナにとっては抜け出した子供の世界、広告の世界への疾走となっている。その直線的な移動は映画館を前にした勢いづいた衝突、その後のハグでクライマックスを迎え、2人はゲイリーが立ち上げたゲームセンターへと向かう。

失われる理想郷

そして、エンドロールでは夕日に向かって歩いていく2人が映される。この映画内で夕日が象徴的に出てくるのは、PRに覆われた世界が子供の世界であることを象徴していたゲイリーたちが灯油パイプで遊ぶシーンである。子供の世界を拒絶したアラナはその世界の方へと向かっていく。それに対してゲイリーは直線的な移動ができた子供の世界から、不安定な移動の大人の世界へと向かっていく。子供の世界に住む大人でだったゲイリー、大人の世界に住む子供だったアラナは、その間の世界において結ばれる。2人が衝突する場所、その間の世界にあるのは映画館となっている。

ここで、2人の直線的な移動を捉えていたカメラは2人が出会う前の冒頭と同じように不安定なものに戻っている。それは2人がこの先別れること、その間の世界が永続的なものではないことを示唆する。その間の世界にある理想郷のようなゲームセンター、そして映画館も広告システムに飲み込まれて行く。夕日へと向かう2人を捉えた不安定なカメラは直線的な移動ができた時代の終わり、その夕日の先に待っている闇を象徴するものとなっている。

感想 / レビュー

一つの時代の終わり、その先にある暗い予感についての映画として『インヒアレント・ヴァイス』とかなり近いように思う。アラナとゲイリーの間、時代の狭間にあるマージナルな世界が舗道の下にかつてあったビーチなんだろうと思う。それはさらに映画館であり当時のゲームセンターでもあって、リコリスピザという謎のタイトルもその狭間にある何かを指しているんだろう。

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