シャンタル・アケルマン監督による2000年作『囚われの女』について。
解体されるハードボイルド
主人公は愛しているなら嘘をつかないはずという前提を持っていて、それに対して彼女は互いに知らない部分を残すからこそ愛することができると考えている。彼女の言動の不一致が彼女は自分を愛していないんじゃないかという疑惑に繋がり、「彼女は自分を愛しているふりをしているのではないか」という陰謀を追う主人公によるハードボイルド映画のような形になる。その彼女の主人公に見せていない部分が陰謀の潜む裏の世界となる。
主人公は花粉アレルギーのため、彼女のいる社交の場所に出られない。そして彼女の友人達も花を持っている。彼女が社交の場で何をしているか、友人達と何をしているかを把握することができない。把握できるのは彼女のひとりの時の行動のみ。さらに、主人公は記憶力が弱いため、彼女が嘘をついていなくても、記憶との不一致を起こす。それによって主人公の中でその陰謀が強化されていく。そして、彼女が嘘をついていることを発見することで、主人公はその陰謀に確証を得る。その嘘は主人公がややこしく疑ってくることを避けるためのものだったことが後にわかる。
探偵のような行動の果てに男が辿り着いた仮説は、彼女は女性を愛している、だから自分を愛していないということであり、その仮説を元に同じような経験を持つ女性にヒアリングを行う。そしてそれで得た知見を元に娼婦に対して正しいかを試し、そして彼女に対して試す。彼女がその通りの動きをしたことでその仮説は立証される。
それによって彼女が自分を愛していないと自分の中で結論づけ、別れることを提案する。全てが男の中で完結しており、実際に彼女がどうなのかはわからない。ただ、互いに愛し合っている(もしくはその体でいる)ことは変わらず、互いに振られる側としてすれ違ったまま別れることが決まる。
別れることが決定した後、探偵が犯人にするように彼女に自白させようとするが失敗する。そして、主人公の中での結論も揺らぎ、別れることを取り消すことになる。ここで、主人公がただただ勝手に自分を被害者にしていっただけで、彼女は主人公をまだ愛しているようにも、思っていることを彼女が観客にも隠しているようにも見える。
主人公が一方的に彼女を判断し自己完結していることは、一方的に彼女が映る映像のスクリーンを見る主人公のシーンから始まり、その後も主人公が彼女をストーカーし一方的に見続けること、さらに別れた風呂のシーンや、寝ているところに一方的に行われるセックスに象徴される。
そして、別れることを取り消した後、宿泊先の海で彼女が消える。もしそこで溺れる彼女を助けられれば、ずっと一方的だった主人公に対して、彼女が本で読んだと語っていた偶然、死、恐怖によって二人が互いに向かい合う瞬間となるはずだったが、彼女が見つからないまま主人公が1人になって終わる。結局彼女がどうだったのか、主人公の信じていた陰謀は正しかったのかもわからないまま終わる。
感想 / レビュー
ハードボイルドをサイコ化することによって解体している映画なんだろうと思う。
ひたすらサイコな主人公に付き合わされるため見てる間ずっとストレスがある。一方で、自分も同じような思考になったことがないとは言えないので、他人事として突き放すこともできず非常にヒリヒリした気持ちで上映時間を過ごした。なんか急に相手の態度変わったりした時にSNS見て浮気疑惑勝手に持ってしまうのとかと思考としては同じな気がする。
作品詳細
- 監督:シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman)
- タイトル:囚われの女(La Captive)
- 製作:2000年 フランス・ベルギー